綱島に焼夷弾の雨降る 綱島台在住 飯田助知さん
綱島に1945年4月、焼夷弾の雨が降った。当時小学2年生だった港北区綱島台在住の飯田助知(すけとも)さん(87)に、その時の話を聞いた。
内外編物(株)や安立(あんりつ)電気(新吉田町)の工場が軍事につながる工場だったため、綱島が焼夷弾投下の標的にされた。空から放たれた焼夷弾は的から逸れ、飯田家の蔵や近隣の家に落ちた。飯田家の蔵は土蔵だったため周囲に火が燃え移らなかったが、近隣の家は燃えてしまった。自宅敷地内には空き地があり、そこの倉庫や木材置き場に床を張り、家が燃えてしまった近隣住民が寝泊まりする場所にした。飯田家は江戸時代に旧北綱島村の名主を務めていることもあり、「日頃から、いざの時にどうするかということを常に頭に入れていた」と話す。
そして5月29日午前9時、飯田さんが自宅にいる時に横浜大空襲が起こった。
飯田さんによると、周辺の被害は大きくはなかったという。しかし、その日の夕方に見た、市街地方面の空の色は、「火災で真っ赤に染まっていた。夕焼けとは違うかなりキツい赤で、異様な光景だった」と鮮明に記憶に残っている。
飯田家は南側に山があることから、「朝日が昇るのが遅く冬は寒いが、台風などの自然災害の影響を受けにくい」と話す一方、利便性が高くなった現代において、「快適さなどを求めすぎて、万が一の時のために必要となる空き地などが減ってきている。悲劇が起こってからでは遅い」と危機感を抱くこともあるという。また、何か起こった時に対応できるように、「戦災を教訓に、近隣の人と協力することが大切」と地域連帯の重要性を説く。
教育が戦争協力に
県立高校で教鞭をとり、のちに校長を務めた飯田さん。「当時の教育は、国の政策の宣伝機関になってしまっていた」と話し、「教育とは、批判的に物事を見て思考力を養うのが本来のあり方」と力強く語る。
教員を退職した今、約8000人から成る神奈川県立学校教職員退職者会の会長を務めている。同団体の設立者の中には、「教育が戦争に協力していたことを反省した」という考えを示す人もいたという。現在もその思考が反映されており、平和への関心が高く、毎年5月29日付近には総会を開いている。「戦争を起こしてはならないことを再確認し、戦災を受けて学んだことを次世代に引き継いでいきたい」と口にする。
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今年で戦後80年。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。