「粟津潔邸」は駆け出しの原広司と気鋭のデザイナー粟津潔の出会いが生んだ“空に開く家”~愛の名住宅図鑑22「粟津潔邸」(1972年)
後の巨匠・原広司の出世作となった「粟津潔邸」
「粟津潔邸」(現・AWAZU HOUSE ART CENTER)は、1972年に建築家・原広司の設計で完成した粟津潔(1929~2009年)のアトリエ兼住居だ。
戦後日本のグラフィック・デザインをけん引した粟津は、2009年に80歳で亡くなるまで無数の作品をこの家で生み出した。粟津は建築界とのつながりも深く、1960年に発足した「メタボリズム」の当初メンバーであり、菊竹清訓や黒川紀章らと実際の建築でもたびたび協働した。
一方の原広司は、粟津よりも7歳若い1936年生まれ。今年1月に89歳で亡くなった。
原は東京大学在籍時からその才能を知られ、この住宅が出世作となって評価をさらに高めた。その後は「原邸(自邸)」(1974年)、「末田美術館」(1981年)、「田崎美術館」(1986年)、「ヤマトインターナショナル東京本社ビル」(1986年)、「飯田市美術博物館」(1988年)と、どんどん規模の大きい施設を設計するようになり、平成に入ると、「梅田スカイビル」(1993年)、「京都駅ビル」(1997年)、「札幌ドーム」(2001年)と、もはや別次元のような巨大建築を生み出す大建築家となる。
だが、この粟津潔邸を訪れた多くの人はきっと、こう思う。「ああ、原さんの考えはこのときと全く変わっていない」と。そして「この施主と出会っていなかったら、その後の建築は違うものだったかもしれない」と。
<有孔体理論>の実践であり、<反射性住居>の原型
神奈川県川崎市、小田急線・読売ランド前駅から南東方向に急な坂を上り、15分ほど歩いた住宅街に粟津潔邸は立っている。
建築の専門家たちはこの家を説明するとき、だいたいこんなふうに書く。
「この住宅は、『建築に何が可能か』(1967年刊)において<有孔体理論>を展開した原広司が、その後10年間にわたって世界の集落を調査しながらつくることになった一連の<反射性住居>の原型である」。
何のことやら…であろう。あなたが将来、建築家を目指しているならば、<有孔体理論>や<反射性住居>について正しく理解しなければならない。その場合、例えば建築史家・倉方俊輔氏によるこの原稿などを入り口にしてほしい。
しかし、筆者がこの連載で伝えたいのは、住宅の“体験”であり、そこに込められた“愛”である。筆者自身が理解できているかもあやしい<有孔体理論>や<反射性住居>は脇に置いておいて、“普通の来訪者”の目線でリポートする。
この家は、東側から訪れるか西側から訪れるかで第一印象が異なる。建物は東から西に上る傾斜地にあり、東から訪れると、2階建てのコンクリートの細長いボリュームが斜面に埋もれていくようだ。
反対に玄関のある西側から訪れると、全体が地面に埋もれ、外観がないかのように見える。
前面道路からは認識できないが、南側には建物とほぼ同じくらいの面積の傾斜した庭が広がる。
京都駅ビルを思わせる内部空間
玄関のある西側は左右対称の構成。中央のドアを開けて中に入ると、その対称性が保持されたまま、幅の狭い階段が「どこまで続く?」と心配になるくらい下へと伸びていく。
玄関から階段を1層下りると、「ホール」と呼ぶ踊り場のような空間がある。
両側には照明の塔がポコポコと立ち、上部には半円柱のガラス面が東西に伸びる。天井の両側にも複数のトップライトがあり、室内に複雑な光と影をつくる。その印象は、大きさこそ違うものの、京都駅ビルのアトリウムと似ている。
ホールの両側には厨房や書斎、子ども室などがある。さらに階段を下りると、1階の東側には天井の高いアトリエ、西側には和室や浴室がある。
“普通の来訪者”にとっては何とも暮らしにくそうな家だ。と同時に、建て主の粟津がそんな最大公約数的な暮らしやすさを望んでいなかったこともひしひしと伝わってくる。
活躍する菊竹や黒川ではなく、駆け出しの原広司に依頼
若い人は粟津潔のことを知らないかもしれない。
粟津は東京出身で、独学で絵画やデザインを学び、デザイナーとなった。1955年、26歳のときに制作したポスター『海を返せ』で日本宣伝美術会賞を受賞し、脚光を浴びる。映画や舞台などのポスターデザインから書籍の装幀、映画のタイトルカット、映像作品に至るまで、分野を越境しながら表現を追求した。
建築との関わりも増え、冒頭に書いたように、1960年には建築家の有志と「メタボリズム」を結成する。
粟津と原が出会ったのは1965年だった。粟津が編集長を務めた雑誌『デザイン批評』(風土社、1966~70年)で、2人は執筆者や対談者として協働するようになる。粟津は30代半ばで、原は20代の終わりだった。
粟津は、建築家として活躍していた菊竹清訓や黒川紀章ではなく、実作のほとんどない原に自邸の設計を依頼したのだ。よほど光るものを感じたのだろう。
設計の過程で2人は何度も話をしたが、粟津が住まいの具体的要望を口にすることは少なく、「いま自分がどんな仕事をし、何を表現しようとしているのか」という話ばかりしていたと原は振り返る。
筆者は建築家ではないが、設計という作業は依頼主が要望を箇条書きにしてくれた方がむしろ楽だと思う。粟津の場合、具体的な要望を語らなかったものの、「すべてお任せ」というわけでもなかった。
2人で何度も話をしたのは、お互いのクリエーションにとってプラスになる家をつくれ、ということだったのだろう。原は2年間の模索の末、この家を完成させた。
住宅とは思えない垂直空間
そういうプロセスだから、原のその後の設計指針となる<有孔体理論>や<反射性住居>について語りやすい構成になっていることはある意味、当然だ。
では、粟津のクリエーションにどうプラスになったのか。筆者が想像するに、それは“上昇性”と“光”だと思う。壁に窓はあるものの、ここでの体感は“空に開く家”なのだ。
前述の通り、この家は屋上の玄関から入って、下へ下へと降りて行く。だが、上から自然光が入るので、意識は常に上を向く。そのクライマックスが1階のアトリエ。建物は2層だが、アトリエの南北両側は天窓が一段高い位置につくられており、3層分の高さがある。住宅では見たことのない垂直空間だ。
そして、上から落ちる光。これほど室内の各所にトップライトがある住宅は珍しい。
自分の家を考えてみてほしい。暮らしの中で上を向くことはあるだろうか。これが粟津の創作心や挑戦心に影響を与えたことは想像に難くない。
「出会い」から新しい出来事が始まる
普通の人にとっては暮らしにくそう、と書いたが、原は暮らしやすさを全く顧みなかったわけではない。
1つには、この家は通風の窓がたくさんあって、南北に風がよく抜ける。窓の多くは、目線よりも低い床レベルにある。座って作業したり、寝転んだりしたときに心地よい風だ。
もう1つは、あらゆるところに収納がある。こんな複雑なつくりなので、そもそも大きな収納家具を搬入するのが困難だ。造り付けの収納を多数設けることで、当初の空間性が守られるようにしたのだろう。
粟津はこの家ができた1972年から2009年に80歳で亡くなるまでの作品のほとんどを、この家で生み出した。自身の作品だけでなく、多くの人が分野を越えてここに集い、刺激を与え合った。もしかすると、そのことの方が粟津にとっては重要だったのかもしれない。
粟津のこんな言葉が残っている。「人間には『出会い』ということがあります。誰かと誰かが出会う事実によって、何か今までになかった世界がつくられます。お互いが未知なるものを秘めながら、必然的であろうと偶然であろうと、そこから新しい出来事が始まります。」(粟津潔)
まさにこの家のことを言っているようだ。
そして粟津が亡くなった後も、妻はこの家で暮らし続けた。第三者がこの家の使い勝手を批判したとしても何の意味もなかろう。
2023年からアートセンターに
粟津が亡くなってから13年がたった2022年、子息でアート・プロデューサーの粟津KEN氏がこの家を完成当時の姿に戻し、2023年秋からは「AWAZU HOUSE ART CENTER」として不定期に公開している。
KEN氏は、「どんなに立派な建物でも、どんな権威的な建築家のデザインであっても、そこで何が起こっているのか、魂がそこにあるのか、それが問題だ」と語る。あたかも骨董品のように展示されてしまうことは、この家にはふさわしくない。領域を越えたアートセンターとすることで、新たな出会いを継続していこう、というわけだ。
ただ、現実的な問題として、開口部が多く地面に埋まったようなこの家の維持には、かなりの費用がかかる。その取り組みに支援ができる方はKEN氏にご一報いただきたい。イベント情報や問い合わせは公式サイトへ。
■概要データ
粟津潔邸
所在地:神奈川県川崎市多摩区南生田1-5-24
設計:原広司+アトリエφ
階数:地上3階
構造:鉄筋コンクリート造
敷地面積:602㎡
延べ面積::256㎡
竣工:1972年(昭和47年)
■参考文献
『新建築』1972年9月号
WINDOW RESEARCH INSTITUTE「原広司『粟津邸』の窓 闇を照らす光の空間」(贄川雪著)https://madoken.jp/series/19828/
AWAZU HOUSE ART CENTER 公式サイト https://awazuhouse.setenv.net/