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大震災後に歩む、松尾芭蕉の「みちのく」 長谷川 櫂さんが読む『おくのほそ道』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

大震災後に歩む、松尾芭蕉の「みちのく」 長谷川 櫂さんが読む『おくのほそ道』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

長谷川櫂さんによる、松尾芭蕉『おくのほそ道』読み解き

大震災後に歩む、芭蕉の「みちのく」。

松尾芭蕉の『おくのほそ道』は単なる紀行文ではなく、周到に構成され、虚実が入り交じる文学作品です。

『NHK「100分de名著」ブックス 松尾芭蕉 おくのほそ道』では、長谷川櫂さんが、東日本大震災の被災地とも重なる芭蕉の旅の道行きをたどり、「かるみ」を獲得するに至るまでの思考の痕跡を探ります。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第1回/全5回)

『おくのほそ道』への旅

 二〇一一年春、東日本大震災が起こり、東北地方の太平洋岸一帯を大地震と大津波が襲いました。時をさかのぼると、今から三百年前の夏、この被災地に沿って松尾芭蕉は曾良(そら)と二人、旅をしました。それが『おくのほそ道』です。

『おくのほそ道』は芭蕉がみちのくを旅した紀行文であると考えられています。紀行文とはいつどこを旅し、何をしたかを記した旅の記録、旅行記のことです。しかしながら、この本は厳密な意味での旅行記ではありません。

 というのは、『おくのほそ道』は周到に構成され、文章を練って書かれた文学であるからです。芭蕉がこの旅をしたのは元禄二年(一六八九年)、四十六歳のときですが、五年後、五十一歳で死ぬまで筆を入れつづけました。なぜかというと、芭蕉はこの本を単なる旅の記録としてではなく、確固とした文学として書こうとしたからです。

 たしかに旅の行程はじっさい芭蕉と曾良が旅をした道順にそっています。しかし、旅の細部は芭蕉の手で随所に取捨が加えられ旅の全体は大胆に再構成されています。さらに越後の市振(いちぶり)での遊女との出会いのように芭蕉が創作した話も加えられています。

 その結果、『おくのほそ道』は実と虚の入り交じった物語になりました。しかしながら、すぐれた文学作品がみなそうであるように、『おくのほそ道』も虚実相半ばすることによって、芭蕉の宇宙観や人生観を反映した世界的な文学作品になりました。もし単なる旅行記だったならば、この本がその後、得たような評価を得ることはなかったでしょう。

 読者はここに書かれていることが芭蕉と曾良の二人がじっさい旅で体験したことだろうと思って読んでゆくわけですが、必ずしもそうではない。ほんとうにあったことだろうと思っていると、いつのまにか芭蕉の夢想の世界で遊んでいることになる。つまり、みごとにだまされる。『おくのほそ道』を読むとき、まず大事なことは、この本に書かれていることはじっさいの旅とはちがうということをわきまえてかかることです。

 では芭蕉はなぜ『おくのほそ道』を書いたのか。また単なる旅行記でないとすれば、この本には何が書かれているのか。それを知るためには『おくのほそ道』だけを読むのではなく、今一度、芭蕉の人生の流れのなかにこの本を戻して読まなくてはなりません。

 古池や蛙(かはづ)飛(とび)こむ水のおと    

芭蕉

 貞享三年(一六八六年)に詠まれたこの句は、それまで他愛ない言葉遊びでしかなかった俳句にはじめて心の世界を開いた「蕉風(しょうふう)開眼の句」でした。芭蕉はこの古池の句から死までの八年間、この句が開いた心の世界を自分の俳句でさまざまに展開し、門弟たちに広めてゆきます。それはじつに密度の濃い八年でした。

 そのなかで古池の句の三年後に出かけたのが『おくのほそ道』の旅でした。芭蕉は歌枕の宝庫といわれたみちのく(東北地方の太平洋側、福島、宮城、岩手、青森の四県)で心の世界を存分に展開しようとしたのでした。歌枕は現実に存在する名所旧跡とちがって、人間が想像力で創り出した架空の名所です。みちのくは辺境の地であったためにその宝庫だったのです。

 芭蕉の旅はみちのくを訪ねたあと、今度は日本海側へ抜けて大垣までつづきます。その間、芭蕉は不易流行(ふえきりゅうこう)と「かるみ」という二つの重要な考え方をつかむことになります。不易流行とは宇宙はたえず変化(流行)しながらも不変(不易)であるという壮大な宇宙観です。また、「かるみ」とはさまざまな嘆きに満ちた人生を微笑をもって乗り越えてゆくというたくましい生き方です。

『おくのほそ道』の旅の出発当初の目的は、みちのくの歌枕を訪ねて心の世界の展開を試みることだったのですが、その心の世界は帰り道にさらなる展開をとげ、芭蕉は思いもしなかった旅みやげを二つも手にしたというわけです。

『おくのほそ道』をただの旅行記としてではなく、芭蕉の人生の中にすえて読むことによって、悲しみや苦しみに満ちたこの世界をどう生きていったらいいのかと問いつづける芭蕉の姿が浮かびあがってくるのです。それは大震災後を生きる人々への大きな示唆となるにちがいありません。

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著者

長谷川 櫂(はせがわ・かい)
俳人。東京大学法学部卒業。読売新聞記者を経て俳句に専念。俳句結社「古志」前主宰、「ネット投句」選者、「季語と歳時記の会(きごさい)」代表。「朝日俳壇」選者、東海大学特任教授。俳論集『俳句の宇宙』でサントリー学芸賞(1990年)、句集『虚空』で読売文学賞(2003年)を受賞(ともに花神社刊)。『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書)、『俳句の宇宙』『古池に蛙は飛びこんだか』(ともに中公文庫)などの著書がある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

■「100分de名著ブックス 松尾芭蕉 おくのほそ道」(長谷川 櫂著)「はじめに」より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。

*第1章~第4章における『おくのほそ道』原文の引用は、尾形仂『おくのほそ道評釈』(角川書店)に拠ります。また、ブックス特別章の『おくのほそ道』全文は、同書より許可を得て転載し、編集部で作成した脚注を加えたものです。なお、そのいずれについても、読みやすくするために句の前後を一行分あけました。他の引用は「新編日本古典文学全集」(小学館)、「日本古典文学大系」(岩波書店)、「古典俳文学大系」(集英社)に拠ります。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2013年10月に放送された「松尾芭蕉 おくのほそ道」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たに「『おくのほそ道』全文」、年譜などを収載したものです。

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