下新城在住 松原重郎さん(92) 終戦間近に兄の戦死 母、悲嘆 親戚宅で飲んだ砂糖水はごちそう
「パカッ、パカッ、パカッて馬が走る音ってあるでしょ。その音のように聞こえたんだよ」。1945年4月15日未明に襲った川崎大空襲。当時12歳。隣家との間に作った防空壕で聞いた、焼夷弾が落ちる音をそう表現する。明け方、防空壕から出ると畑だった現在の新城高校の辺りが勢いよく真っ赤に燃えていた。「生ゴムが焼ける臭い。でも正直言うと嫌な臭いに感じなかった」
生まれも育ちも下新城。当時、周辺は橋場村と呼ばれていた。近隣の川に橋が架けられ、洗濯や米とぎなどに使われていた。通学していたのは中原尋常高等小学校の分教場。戦争が始まると学校では「日本は絶対に負けない神の国」と習い、教育勅語を暗記させられた。「軍国主義。それが当たり前だと思っていた。今だから批判できるけど、資源がない日本は負けるに決まっていたよね」
農家だったため、食べ物には苦労しなかったものの、砂糖がなく甘いものはごちそうだった。親戚の家に行ったときに出された砂糖水の味が忘れられないという。
44年2月、10歳離れた兄に”赤紙”が届いた。「寂しさもあったけど、仕方がないこと。父がいない家で、母は跡取りとして期待していたからがっかりしていた」。入隊したのは海軍の武山海兵団。「泳げないんだけどな」と兄がぼやいたのを覚えているという。出征の日、新城神社に近所の人が集まり、軍歌を歌って中原駅で送り出した。その兄は、同年10月にフィリンピンのレイテ沖で戦艦武蔵と最期を共にした。家の近くを陸軍の人たちが通った際に「武蔵が沈んだらしい」と話していたのを聞いたが、11月、12月にも兄からの手紙が届いたため、信じることができなかった。「終戦間近に戦死の報が届いた。母がとにかく悲しんでいてね」
8月15日の玉音放送は近所の人たちと聞いた。言葉が難しく、理解できなかったが大人たちの様子で分かった。「戦争は何もプラスにならない。当時を経験した人が少なくなってきている。日本が悲惨な目にあっていたことを残し、伝えていかないと」
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戦後79年を経て、戦争の記憶が風化しつつある。体験者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。