『豊臣家滅亡の原因?』秀吉子飼いの武将たちの大喧嘩 ~武断派と文治派
豊臣秀吉が一代で築き上げた豊臣家。
しかし豊臣家は秀吉が死去した途端に不安定になり、分裂し、徳川家康に滅ぼされてしまった。
なぜ豊臣家は不安定になり、家臣たちは結束できなかったのか。
その一因として、秀吉が自ら育て上げた「豊臣子飼い」と呼ばれる家臣たちの大喧嘩があった。
豊臣家の子飼いの家臣たち
秀吉は、その出自の低さから他の大名のように「譜代の家臣」を持っていなかった。
譜代の家臣とは、代々その家に仕える家来のことで、大名にとっては政権運営の要だ。しかし、秀吉にはそのような家臣がいなかったため、自分で家来を集める必要があった。
親戚に目をつけてスカウトすることもあれば、出先で有望そうな人物をその場で仲間に引き入れることもあった。
こうして集まったのが豊臣家臣団だ。
例えば、秀吉の母の従姉妹の子である虎之助。彼は後の加藤清正である。
秀吉の母の妹の子である市松は、後の福島正則。
出先で立ち寄った寺で茶を点てた少年の逸話で知られる佐吉は、後の石田三成である。
彼らは1歳ずつしか年が離れておらず、若い頃から秀吉に仕えた仲間だった。
だんだんと派閥ができた豊臣家臣
秀吉のもとには、多くの才能が集まった。
他には、加藤嘉明、増田長盛、前田玄以、大谷吉継、小西行長などがよく知られている。さらに、秀吉の側近として知られる黒田官兵衛や、嫡男・長政も家臣団の一翼を担った。
秀吉の家臣団は、次第に「武断派」と「文治派」という二つの派閥に分かれていった。
武断派には、戦場での働きを得意とする加藤清正、福島正則、加藤嘉明らが属していた。
彼らは実戦での手柄を重ね、秀吉の勢力拡大に貢献したメンバーである。また、黒田長政もこの派閥に含まれ、父・官兵衛が策略家として知られる一方、長政はその軍略と武勇で評価された。
一方、文治派は、行政や事務処理を得意とする石田三成、増田長盛、前田玄以らを中心としていた。
特に三成は、秀吉の信頼を得て政務を取り仕切り、豊臣政権の中核を担った。
彼らの多くは近江出身であり、商業が盛んな地域特有の合理性や計算能力がその役割に適していたとされる。
「賤ヶ岳七本槍」と「賤ヶ岳先駆け衆」
武断派の大きな功績として「賤ヶ岳七本槍」が知られる。
これは、1583年の賤ヶ岳の戦いで顕著な活躍を見せた加藤清正、福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の7人を称えたものである。
一方で、あまり知られていない「賤ヶ岳先駆け衆」と呼ばれる14人の武将たちも活躍している。
ここには石田三成や大谷吉継も含まれており、賤ヶ岳の戦いでは文治派のメンバーも武功を挙げていたことがわかる。
秀吉は、少なくともこの頃までは優れた人材を適材適所に配置し、公平に評価していたといえよう。
朝鮮出兵で深まる溝
しかし、1592年の朝鮮出兵(文禄の役)が始まると状況が一変する。
武断派たちは朝鮮の前線で戦い続け、一方の文治派は日本に留まり、戦況を観察して秀吉に報告する役目を担った。この頃、老齢となった秀吉は昔ほどの判断力を失ったのか、文治派の報告に頼る場面が増えていった。
そして朝鮮出兵の最中、武断派の中でも特に成果を挙げていた加藤清正が日本に呼び戻され、秀吉から厳しく叱責され謹慎となった。
戦場で成果を挙げていた清正に対するこの処遇に、武断派は強い不満を抱いた。
この出来事を武断派は「文治派の讒言が原因だ」と考え、これをきっかけに両派の関係には深い亀裂が生じたのである。
秀吉の死、関ヶ原…文治派と武断派の衰退
1598年に秀吉が死去すると、武断派と文治派の対立は一気に激化した。
1599年(慶長4年)、武断派の加藤清正や福島正則ら七将が、石田三成を襲撃する事件を起こしたのである。
この襲撃計画は、朝鮮出兵の査定や政務運営をめぐる不満が背景にあったとされる。三成は事前に計画を察知し、佐竹義宣の屋敷に逃げ込むことで難を逃れたものの、蟄居を命じられ、豊臣政権の中枢から排除されることとなった。
この対立を巧みに利用したのが徳川家康である。
家康は政権内で影響力を拡大し、1600年には上杉景勝の動向を理由に会津征伐を開始。その隙を突いて、家康に不満を抱いた石田三成ら文治派が挙兵し、「関ヶ原の戦い」が勃発した。
関ヶ原の戦いでは、戦闘を得意とする武断派の前に文治派は敗北した。特に、豊臣家の象徴である淀殿が中立を保ったことが、文治派にとっては大きな痛手となった。戦いの結果、三成は処刑され、文治派は崩壊した。
しかし、勝利を収めた武断派たちも安泰ではなかった。
家康が権力を握ると、豊臣政権の残存勢力は次第に排除されていった。
1611年には加藤清正が病死し、1632年には息子の加藤忠広が不行状を理由に改易され、加藤家は断絶した。
福島正則は1620年、広島城の無断修築を理由に改易され、武断派の勢力も次第に失墜していったのである。
おわりに
もし秀吉が晩年に判断を誤らず、武断派と文治派という二つの派閥のバランスを保つことができていれば、両派が協力し、豊臣政権の結束を強めることも可能だったかもしれない。
そうなれば、秀吉の死後も家康が権力を握る隙を与えることなく、豊臣家は滅亡を免れた可能性もある。
歴史を振り返ると、派閥争いが良い結果をもたらすことは少ない。豊臣家の崩壊もその一例と言えるだろう。
参考:『歴史道』他
文 / 草の実堂編集部