生涯医師として寺家村で医療に尽くし、社会福祉や文人としても活動した偉人 野坂完山【東広島史】
東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:大森美寿枝
村の医者として地域に尽くした名医 野坂完山(のさかかんざん)
生い立ち
野坂完山は西条町寺家の医師、玄珉(げんみん)と母、園(その)の一子として、天明5(1785)年10月8日に生まれ来蔵(らいぞう)と名付けられました。通称を三益(さんえき)(祖父の名をついだもの)といい、後に完山と号しました。
野坂家は鎌倉時代にこの地に入部した三戸新四郎源頼興(みとしんしろうみなもとのよりおき)の後裔(こうえい)で、完山はそれから数えて19代目に当たる名家とされています。累代医師を継ぎ、完山で7代目となります。
野坂家家系図
初代―猪平次・2代―儀三郎・3代―宗悦・4代―師方・5代―三益・6代―玄珉・7代―完山(三益)
寛政12(1800)年16歳になった完山は、広島城下猿楽町の三宅見龍(みやけけんりゅう)・西涯(せいがい)父子の門弟となりました。
入塾後2カ月余り経ったころ、師の見龍より「三タビ肱ヲ折ッテ初メテ良医ニナル」という言い伝えがあるとして「三折(さんせつ)」と改名を許されています。その頃から完山の優れた素質が見えていたと言えます。一通りの課程を学び享和元(1801)年暮れに帰村しています。
享和3(1803)年春に完山19歳、三宅両師の恩師である京の中神琴渓(なかがみきんけい)の門に入り、古医方(こいほう)のバイブルといわれる「傷寒論(しょうかんろん)」の教えをうけます。
完山は9カ月の勉学をもって、12月末には帰村しました。
帰村の翌年に居宅の改造、さらに1年おいて土蔵を増築し、塾開設の準備をしています。
この年完山は22歳になっています。
恭塾(きょうじゅく)の開設
文化3(1806)年完山22歳、前年に家や蔵を増改築し塾を開設しています。完山は「門人姓名記録」を備えて、入塾の都度順番に住所氏名を記入しています。それによると文化3年に豊田郡和木村(現大和町)の人がトップで、続いて近隣の旧家の子息と思われる人物8名が連なっていました。その後、門人の輪が広がり西学寮を増設しています。
天保5(1834)年御医師格に列せられた50歳の頃には、恭塾で学ぶ者は中国四国地方、九州、近畿、北陸地方からも入門者があり、500名を超えたと言われています。
門下生の中で有名なのが、戸野村の「福原繁太郎(ふくはらしげたろう)」、後に福山藩の儒者として重用された江木鰐水(えぎがくすい)は17歳の時に入門し、1年あまり学んでいます。
完山の著述として「傷寒論壬辰録(じんしんろく)」6巻、「医事窺班(いじきはん)」16巻、「芸備大帳外史(げいびだいちょうがいし)」23巻など残されています。
医療活動・社会福祉活動
完山は医師として自らは三益と名のり、診療生活は多忙でした。貧富の差別なく診療し、往診の範囲は近郷や芸備各地に。愛媛県の今治、山口県の岩国にも出かけています。
完山が活躍した時代は、天候異変等で飢饉(ききん)や伝染病がしきりに発生し餓死者(がししゃ)まで出る時代でした。文政5(1822)年にコレラが大発生し、完山は予防薬を賀茂郡22カ村、1万5千552点を無料で配付しました。天保8(1837)年には再び飢饉が発生、それに続き「はしか」が流行し広島藩では10万人が亡くなったと言われています。完山は薬品を配布し、救米を配っています。
また飢饉の対策に、食べられる山野の草木66種の調理法と食べ方を絵入りで「凶年貧民救餓録(きょうねんひんみんきゅうがろく)」を著し、賀茂郡内の割庄屋(わりじょうや)に配り教えています。
完山は「医は仁術なり」を旨とし、文政初(1818)年の新開地である三升原・柏原は生活基盤が弱く困窮者には無料診療をしています。また、貧しい旅人や近在の貧困の人達のために「施宿(せやど)」を設けて無料で宿泊を提供し、治療もおこなっています。
完山は御医師格に列せられてからも、終生寺家村を離れることなく、地域の医療に福利厚生に心を用いた豊かな人間愛に満ちた人であったことがうかがわれます。
文人としての完山
当時、医学を学ぶには国文・漢学の教養が必修であり語学力が要求されたので、俳句、漢詩をつくることが巧みでした。完山の父、玄珉は白圭または鶴亭(かくてい)という俳号でかなり聞こえておりました。完山は父の死後、川尻村の宗匠、呉竹庵雨洗(くれたけあんうせん)に俳諧を学び俳号を「柴籬(さいり)」と称しました。広島俳壇の中心とされる「多賀庵風律(たがあんふうりつ)」の門に入り、飯田篤郎(いいたとくろう)らとの交友がみられます。
鶴亭日記
鶴亭日記は、完山が青春時代から死の直前まで書き続けた日記です。
第1巻は紛失しており、現在第2巻から46巻まで広島県立文書館に寄託され野坂家文書として公開されています。第46巻は天保11(1840)年8月14日まで、死の3日前です。
「鶴亭」とは屋敷の名前で、野坂家付近は江戸の頃には毎年鶴が多く飛来したところから名付けられたようです。また、玄珉が残した書斎「鶴亭」で執筆したため鶴亭日記と命名されています。
広島藩主も度々鷹狩りにこの地を訪れ、鶴亭で休息したと記録にあります。日記は日常的な事は「楷書」、書簡文等は「行書」、詩歌は「草書」と使い分けて書かれ、内容は江戸時代の政治、経済、生活等を記録した、まるで江戸時代の百科事典のようで郷土の貴重な資料となっています。
完山は生涯を地方にあって、医療活動に尽くし、地域のみならず各地の門弟を教育し慈善活動をおこし享年56歳で没しました。地域のため、精いっぱい燃焼し尽くした偉大な生涯でした。
「完山の辞世詩」
聖眸承乏辱君恩
一介鄙生抱素餮
五十五年日非浅
遺身無恙復天元
【通解】殿様の御目にとまって、忝(かたじけな)くも御医師格の役にお取立て頂いた一介の愚か者が唯俸禄(ただほうろく)のみ得て今日に至った。これまで55年間の歳月は決して短いものではない。今この身を投げ打って無事天(君主)にお返しすることである。
野坂完山の墓
嘉永6(1853)年、完山没後13回忌に門人100名余により「完山野阪先生碑」を現在の東広島市西条中央8丁目に建立しました(ここは江戸時代には寺家村の飛び地でした)。墓碑銘(ぼひめい)は門弟で福山藩の弘道館教授「江木鰐水」の撰文(せんぶん)になっています。墓碑銘には「野阪」と記入されていますが、本名は「野坂」を使用していることから「野坂完山の墓」とよばれており、昭和29(1954)年1月26日、広島県史跡に指定されています。
碑は静寂に包まれた高台に建てられ、正面は生地である野坂家の方角北西に向き、両側面と背面には完山の業績が刻まれています。碑文の最後に「医は仁術(思いやりを持って接する術)と言われてきたが、今時は儲(もう)けばかり考える人が多い。ああ、先生は真の仁術を実践された」という文で締めくくられています。現在は風化が進み解読が困難な状態になり残念です。
また、完山の生地も住宅地になり野坂家跡地の片隅には完山より5代後の当主、野坂利器(のさかとしな)氏の胸像があります。利器氏も完山の意を受け継ぎ医師として、寺西村長として尽力された業績を顕彰するため地域の人達により像が建てられました。
郷土の偉人である野坂完山の仁慈(じんじ)に満ちた人なりを知っていただき、次の世代へと語り継がれていくことを願っています。
野坂完山 《略年表》
天明 5年(1785)
賀茂郡寺家村に誕生
寛政12年(1800)
16歳
広島の三宅見龍、西涯先生に師事、「三折」と改名
享和 3年(1803)
3月京都の中神琴渓の塾に入門、12月に帰郷
文化 3年(1806)
「恭塾」開設
この頃より「鶴亭日記」が綴られる
文化 5年(1808)
父玄珉死去、名を「三益」と改める
家業を継ぎ医術に専念し、次第に名声が高まる
文政 5年(1822)
コレラ流行、予防薬を22カ村総数15,552点を無料で配る
文政 6年(1823)
旅人、貧者に宿を提供し必要な治療を行う
天保 5年(1834)
藩より御医師格に列せられ7人扶持(ぶち)を給せられる
※御医師格…藩に仕える医師
※扶持…武士に与えられる給与
天保 7年(1836)
天候不順で大凶作
天保 8年(1837)
大飢饉、村々に多くの餓死者がでる
麻疹が流行、「救餓録」を編集して郡内に配る
天保11年(1840)
完山死去、56歳(8月17日)
嘉永 6年(1853)
13回忌に門人百余名「完山野阪先生碑」建立
昭和29年(1954)
「完山野阪先生碑」が広島県史跡に指定される
【参考資料】
●西条町誌 西条町
●人づくり風土記 農山漁村文化会
●寺家の歴史散歩 財団法人 寺家会
●野阪完山 前原 豊
プレスネット編集部