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生まれ故郷の安芸国豊田郡戸野村(河内町)を愛し日本を開国に導いた儒学者【東広島史】

東広島デジタル

 東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:吉田泰義

東広島出身の先覚者 日本を開国に導いた


江木鰐水(えぎ がくすい)

学問修行の旅 安芸国~備後国~西国や東国へ

 福原繁太郎(後の江木鰐水)は1810(文化7)年に安芸国豊田郡戸野村助兼(東広島市河内町)で庄屋福原与曽八の三男として誕生、母の繁は備後国沼隈(くま)郡山手村小田(こた)(福山市山手町)の医師藤井玄好の娘。1815(12)年6歳の時に父が亡くなりましたが、母や兄にかわいがられ14歳まで戸野で成長し、母は医者になれと実家の縁で福山の医者五十川寂斎(いかがわしゅくさい)に預けました。寂斎に医学の基本を学んだ後16歳より諸国を旅して修業、まず安芸国賀茂郡寺家村(東広島市西条町)の野阪完山塾に約1年学び九州を遊歴旅行した後に備中の小寺葵園に学んでいます。

 父の墓(写真・左)は戸野の助兼の山沿いにあり、再婚した母の墓(写真・右)は三原の大善寺竹村家墓地にあり、福山教授江木繁太郎晋と異父弟の中津藩岡静之助経(大多和養源との子)建石で、正面に戒名と三面に生涯の履歴が刻まれています。合掌

江木家継承 江木繁太郎(後の鰐水)

 寂斎に見込まれ寂斎の娘道(みち)と結婚し医者が途絶えていた江木家を継ぎ江木繁太郎となりましたが、翌年に妻が亡くなり20歳にして心機一転、儒学を学びたいと寂斎の許しを得て上京し、晩年の頼山陽塾に入門し猛勉強で山陽にかわいがられ晉戈(しんか)と名付けられました。後に「山陽先生行状記」を世に出しています。
 その後も篠崎小竹、古賀侗庵らに儒学、清水赤城には兵学を学び、8年間の修行で儒学者として世に知られるようになり、1837(天保8)年28歳の時に福山へ帰り、福山藩儒官5人扶持に取り立てられ五十川家の敏(とし)と結婚し生涯苦楽を共にして多くの子に恵まれています。

福山藩主に認められ活躍

 32歳で10人扶持に昇進、久敬舎塾も開いて後に活躍した窪田次郎や佐沢太郎などが学んでいます。37歳より福山藩蘭学御用を務め、44歳のときに江戸に召しだされました。
 この時はアメリカのペリー艦隊が黒船で来航し開国を迫られており、1854(嘉永7)年再びやってきた黒船に鰐水は幕府役人代表3人の内の1人に任命されました。この時ペリー一行と対面をしています。『彼里(ペリー60歳)ハ深沈トシテ2度ほど笑ヒテ黙々トシテ居タリ音色も温ナリ…』米国持参の走る模型『蒸気車』を見た。蒸気船と同じく蒸気で走らせる。2両の車があり、後ろの車両には12人が乗って前の機関車で引く。その速さは馬に乗って駆けるように早い。大変なのは『鉄道(レール)』を敷くことである…レールと呼ばれていたその道の事を『鉄道』と日本人として初めて名付けたのは鰐水だったという記録が残されています。
 西欧の文明に目を開かされた鰐水は、阿部正弘に国難に対応するため『攘夷(じょうい)は非』と述べ『開国』を進言しました。そして日米和親条約が締結されたのです。
 幕末の動乱期、正弘が亡くなった後は幼少の藩主を助け、55歳で第1次長州征伐では広島へ、56歳で山陰道への行軍地図作成で旅して第2次長州征伐では幕府軍として石州口に参謀として参戦しましたが敗退、そして福山藩は福山城が攻撃される寸前に降伏し、官軍の命令で函館戦争へ参謀として参戦して苦労しましたが福山藩を救いました。明治維新後も福山の治水利水や殖産の指導を続け35人扶持となっていました。

生まれ故郷を生涯愛した鰐水

鰐水直筆書

 上戸野にある『鰐淵(わにぶち)の滝』に鰐水は親しみ自分の名に取り入れています。鰐水63歳、直筆の書が故郷の戸野に贈られているので紹介します。『流水不腐(りゅうすいくさらず) 戸枢不蠧(こすうむしばまず)』…意味は『流れる水は腐らない。つねに開閉する開き戸の軸は、木食い虫に食われない』です。鰐水は『いつも流れている水はくさりません。戸を開け閉めして、いつもすれているところは虫も食いません。適当なたゆみない努力こそ、けっきょく長生きの秘訣(ひけつ)です』と語っています。

東京 『鰐水江木先生墓』(写真・左)、福山城 『先人の森』の碑(写真・右)

鰐水の晩年

 鰐水の身長は150㌢ほどで痩せていますが健康で健脚意気盛ん、飾り気がなく誰にでも親切に交友し親戚・恩師・友人・家族など円満な生涯でした。
 1877(明治10)年68歳で東京に移住、逍遥風月(しょうようふうげつ)を楽しみ、81(14)年72歳で永眠、お墓は東京天王寺の谷中霊園にあります。その後には福山城に鰐水の功績をたたえ石碑が建てられ先人の森に残っています。
 安芸の国・沼田川沿いで生まれ育ち、備後福山藩需官として藩主を助け日本を開国に導いた江木鰐水。東広島の誇りとして末永く語り継がれることを願います。
 歴史は伝えなければ忘れられてしまいます。『温故知新』過去~現在そして未来に繋がる歴史を生涯学習楽しみましょう。

江木鰐水紙芝居

東広島市内図書館で閲覧できる紙芝居もご覧ください。
東広島市 戸野地域センター発行

野阪完山先生碑

 完山は1840(天保11)年に没して13回忌に碑が建立されましたが、野阪塾で16歳の時に医学を学んだ鰐水は44歳の時に碑文を撰し恩に報いています。1954(昭和29)年に広島県史跡に指定されています。

西条中央8丁目の高台にある完山野阪先生碑(写真・左)、野阪完山肖像画(写真・右)

福山藩主・阿部正弘

 阿部正弘は江戸に生まれ、18歳で福山藩主となり、25歳で老中、27歳より老中首座、38歳のとき日米和親条約を締結し有名ですが、翌年39歳の若さで病死しています。正弘は福山藩のことは国家老に任せていたように思われていますが、門閥にとらわれず人材を登用し、藩政改革、学制改革、軍政改革など実施しました。正弘が設立した誠之館に校訓として『誠者天之道也 誠之者人之道也』・『誠は天の道なり 之を誠にするは 人の道なり』と今に伝えられています。
 鰐水は福山藩主・阿部正弘・正教・正方・正桓の4代に仕えました。

【参考文献・発行年と書名】
 1935年・豊田郡誌
 1973年・醫友ふくやま
 1991年・ふるさとの人と知恵
 1991年・江木鰐水日記
 2001年・福山府中の歴史
 2013年・まんが阿部正弘
 2015年・まんが窪田次郎
 2021年・江木鰐水紙芝居
【その他】
 インターネット
 誠之館人物史
 ウィキペディア 等

プレスネット編集部

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