【16年監禁】突如現れた謎の野生児カスパー・ハウザー 「その正体と不思議な能力」
19世紀初頭のドイツ・ニュルンベルクの街に、ある日突然、ひとりの若者が姿を現した。
彼の名はカスパー・ハウザー。
言葉もままならず、異様な振る舞いを見せる彼は、周囲の人々に「野生児」と呼ばれることになる。
後の証言によれば、カスパーは幼少期から地下の暗い部屋に隔離され、外界と接することなく育てられてきたという。
しかし発見からわずか5年後、何者かによって命を奪われるという結末を迎える。
なぜ彼はそのような生を強いられ、謎の死を遂げたのか。
今回は、いまだ多くの謎に包まれたカスパー・ハウザーの記録を辿りたい。
正体不明の孤児
1828年5月26日、現在のドイツ・バイエルン州ニュルンベルクの街中で、ある一人の青年が発見された。
年齢は10代半ばと見られ、薄汚れた服を着て不自然な歩き方をし、直立することもままならない状態であった。
明らかに様子のおかしいこの青年は、声をかけた市民に二通の手紙を手渡したという。
それらの手紙は、騎兵部隊の大尉に宛てられた無署名のもので、主に以下のようなことが書かれていた。
・青年は1812年4月生まれで、差出人は貧しい実母から彼を預かって育てていた。
・1812年10月に彼を預かってから、今まで一度も家の外に出さなかった。
・実父は騎兵部隊の元隊員で、すでに死亡している。
・青年が父親と同じ騎兵部隊への入隊を希望したため、大尉の元で育ててやってほしい。
そして「もし面倒なら、追い払っても殺しても構わない」という文で締めくくられていたという。
青年は市民によって大尉の元へ案内されたが、大尉にはまったく心当たりがなかったため、警察へと引き渡されて保護された。
しかし、青年の言語能力は2~3歳レベルで、まともな受け答えすらできなかった。
そこで筆談はどうかと、試しに紙とペンを渡してみると、慣れた手つきで『カスパー・ハウザー』と書いて見せた。
以後、青年はカスパー・ハウザーとして、短い人生を送ることとなる。
生い立ちと不思議な能力
カスパー・ハウザーは、警察官や医師、学者など多くの関係者との交流の中で徐々に言葉を覚え、自身の過去について断片的に語るようになった。
彼の証言によれば、幼い頃から狭く暗い空間に閉じ込められ、ほとんど動くこともないまま、長期間にわたってそこで過ごしていたという。食事は日に一度、パンと水だけが与えられ、世話をしていた男の顔を見た記憶はなかった。
ニュルンベルクで保護される少し前になって、ようやく立ち上がる訓練と筆記の練習をさせられたとも語っている。
外の世界に放たれたカスパーは、当初こそ見知らぬ環境に戸惑い、かえって元の生活に戻りたがる様子も見せていた。
光や音、人の存在すら、長年の隔離生活を送った彼には強すぎる刺激だったのである。
しかし、徐々に外界に慣れ、人々のやさしさやぬくもりを感じるようになってからは、自身を閉じ込めていた存在に対して強い憎しみを抱くようになった。
また、保護当初のカスパーには、不思議な能力が備わっていたとされる。
暗闇の中でも、青や緑などの暗い色を正しく認識し、100m以上離れた家の番地を読むことができた。
嗅覚や触覚も異常に鋭く、離れたところから匂いで果物の木を区別したり、触っただけで金属の材質を言い当てたと記録されている。
ただし、これらの能力は一般的な生活に順応するにつれ、次第に失われていったという。
回顧録と襲撃事件
ニュルンベルクで保護された後、カスパーは瞬く間に注目を集め、新聞や雑誌を通じて広く知られることとなった。
次第に言葉を覚え、普通の青年としての生活を送り始めた彼は、自身の体験をもとに回顧録をまとめ、1829年の夏に発表する。
しかし、その直後の同年10月、カスパーは何者かに襲撃される事件に遭う。
幸い命に別状はなく、傷も軽傷で済んだが、犯人は特定されず、事件は暗殺未遂として迷宮入りとなった。
この襲撃については、回顧録の内容に反発した者、あるいは彼の存在を危険視する何者かの犯行だったのではないかと推測されている。
しかし、その4年後の1833年12月14日、カスパーは再び何者かに襲われる。
雪の降る公園で胸を刺され、3日後に亡くなってしまったのである。
犯人はそのまま逃走したが、現場には鏡文字で書かれた謎の手紙が残されていた。
手紙の内容は以下のようなものである。
「カスパー・ハウザーは、私の顔も名前も知っている。
私はババリア国境、川のほとりの生まれの者だ。
名はM・L・Oとだけ名乗っておこう。」
この文書の真偽や意味については、現在に至るまで明確な結論は出ていない。
バーデン大公子説
カスパー・ハウザーの出自については、当時からさまざまな憶測が飛び交っていた。
その中でも最も知られているのは、彼がドイツ南西部を統治していたバーデン大公家の嫡子であったという説である。
バーデン大公カールは、ナポレオンの養女であるステファニー・ド・ボアルネと結婚し、2男3女をもうけたとされている。
そのうち、1812年に誕生してまもなく亡くなったとされる長男について、「実は死んでおらず、後にカスパー・ハウザーとして現れたのではないか」という説が浮上したのである。
カスパーの生年が一致している点や、大公家の人物と顔立ちが似ているといった証言が、この説を後押しした。
仮にこれが事実であれば、カスパーは王位継承権を持つ人物であった可能性がある。
このような背景を踏まえると、彼の身元が最後まで明かされなかったことや、回顧録発表後に二度も襲撃されて命を落としたことは、王位継承をめぐる権力闘争と何らかの関係があったとも考えられる。
実際、この説を検証すべく、これまでに複数回、カスパーの血痕や毛髪を用いたDNA分析が試みられている。
しかし結果は一貫しておらず、いずれも決定的な証拠とはなりえなかった。
2024年には、オーストリアの国立DNAデータベース研究所による最新の分析が行われた。
その結果、ミトコンドリアDNAの比較において、カスパー・ハウザーとバーデン大公家の構成員との間に、生物学的な一致は確認されなかったと発表された。
この鑑定結果により、カスパーがバーデン家の直系子孫である可能性は大きく後退したが、それでも出自の全容が明らかになったわけではない。
彼はいったい、どこから来たのか。
カスパー・ハウザーの正体は、今なお謎に包まれたままである。
参考 :
『野生児の記録3 カスパー・ハウザー』著/A・V・フォイエルバッハ 他
文 / 小森涼子 校正 / 草の実堂編集部