『天に滅ぼされた最強の男の生涯』項羽はなぜ劉邦に敗れたのか?
紀元前3世紀末の古代中国。
秦の始皇帝の死後、混乱に包まれた大陸で、漢の高祖・劉邦(りゅうほう)と天下を争った西楚の覇王・項羽(こうう)。
※姓は項、名は籍(せき)、字(あざな)は羽。以下、一般に知られる「項羽」として記す。
彼は、最期の場で「七十余戦して一度も敗れたことがない」と言い切るほど、戦場では無類の強さを誇った武将であった。
それほど強かった項羽は、なぜ劉邦に敗れ天下を失うことになったのだろうか。
今回は項羽の生涯をたどりながら、その理由を考察する。
挙兵
項羽は、代々楚の将軍を務めた名家の生まれであった。
項羽が10歳のとき、母国である楚が秦に滅ぼされ、彼は叔父の項梁(こうりょう)とともに、本籍である下相から会稽郡の呉に移住する。
呉の地で10年以上力をたくわえた項梁と項羽は、紀元前209年に起きた陳勝・呉広の乱に乗じて会稽郡を乗っ取った。
二人は選りすぐりの精兵8000人を率いて長江を渡り北へ進軍。
陳嬰(ちんえい)や、英布(えいふ)などの兵を参下に加え、楚王を名乗っていた景駒(けいく)の勢力を打ち破る。
この頃、劉邦も項梁のもとへ馳せ参じている。
そして紀元前208年、項梁は参謀の范増(はんぞう)の献言を受け入れて、楚の王族の子孫である羊飼いの男を探し出し『懐王(かいおう)』として擁立した。
項梁の軍は10万人あまりにまでふくれあがり、秦に対して攻勢を開始する。
楚の国を復興させた項梁のもとで、項羽の人生は順風満帆であるかに見えた。
項梁の死
だが、秦軍を相手に快進撃を続けていた項羽のもとに、寝耳に水の知らせが届く。
項梁が秦の名将・章邯(しょうかん)の夜襲を受け、戦死してしまったのだ。
項羽はいったん兵を引き、項梁の軍団を引き継ぐこととなった。
だが、項梁の後継者となった項羽を、懐王は警戒していた。
懐王は、滅んだ陳勝の残党である呂臣(りょしん)や、かつて楚の宰相であった宋義(そうぎ)などを取り立て、自分の権力を確立することを目指した。
もはや、項羽の敵は秦軍だけではない。項梁の死によって、項羽は主君であるはずの懐王や、味方であるはずの宋義すら敵になりかねない状況となった。
だが、この状況の変化に項羽が気づいていたかどうかはわからない。
懐王は章邯に攻められている趙の鉅鹿城への援軍を編成し、宋義を上将軍、項羽を次将、范増を末将として派遣した。
軍事の功績のない宋義をトップとした不当な人事ではあったが、項羽は唯々諾々とそれに従っている。
その一方で、項羽とは別に、劉邦もまた軍を率いて西へと進軍していた。
この頃、楚の懐王は諸将に向けて、「先に関中(秦王朝の本拠地)に入った者をその王とする」との命令を下している。
いわゆる「懐王の約」である。
とはいえ、この宣言が当時どれほど真剣に受け止められていたかは疑わしい。
秦の滅亡がまだ確定していなかった時点では、懐王が単に将兵の士気を鼓舞するために口にした空約束だった可能性もある。
しかし、楚国のトップである懐王のこの宣言は、後に意外なかたちで政治的効力を発揮することになる。
鉅鹿の戦い
項羽は宋義に従って斉との国境に近い、安陽という地に駐屯した。
しかし宋義は、到着後46日もの間そこに留まり、まったく進軍しようとしなかった。彼は斉との同盟を模索しており、息子を斉に派遣して宰相とする密約の成否を見極めようとしていたのである。
業を煮やした項羽は、「将兵の苦しみに目を向けず、息子の出世ばかりを考えるような者は、社稷の臣とは言えぬ」と軍中で断じ、ついに宋義を斬ってその命を奪った。
兵権を掌握した項羽は鉅鹿へ急行し、20万とも30万ともいわれる秦軍に奇跡的な大勝利をおさめた。
諸侯連合軍の支持を受けて総帥に推された項羽は、ついに秦軍の将・章邯を降伏させる。
そして、章邯を関中王(雍王)に封じて、自軍の傘下に置いた。
この時期の項羽は、天下における最強の軍事力を持っていた。
しかし、その立ち位置は政治的には非常に微妙な問題をはらんでいたといえよう。
宋義を切って兵権を掌握したことも、諸侯の軍を率いたことも、章邯の降伏を受け入れて王に任命したことも、そのすべてが項羽の独断なのである。項羽本人の思惑はどうあれ、懐王からすれば反逆にも値する行為である。
項羽の政治的な正当性は、楚の懐王によって保証されていた。つまり項羽の一連の行動は、自身の大義名分を自らかなぐり捨てているも同然であった。
だが、最強の勢力に成長した項羽軍を止められる者は、もはや天下に誰一人として存在しなかった。
秦を滅ぼす
紀元前206年10月、諸将・諸侯の兵40万を従えて西へ侵攻した項羽は、12月になって関中の玄関口である函谷関に到着する。
だが、そこを守っていたのは秦の兵ではなく、味方であったはずの劉邦の兵であった。
劉邦は函谷関を迂回して関中へ進軍し、すでに秦王・子嬰を降伏させていたのだ。
『懐王の約』を理由に関中の支配者としてふるまい、なおかつ進軍を食い止めようとした劉邦に項羽は激怒した。
項羽は函谷関を強行突破し、秦の都・咸陽の近くに駐屯している劉邦を滅ぼそうとしたが、叔父である項伯(こうはく)がそれを止めた。劉邦は項伯を通じて、項羽に降伏を申し出てきたのだった。(※鴻門の会)
こうして劉邦を降した項羽は咸陽の王宮を焼き払い、軍は無秩序かつ大規模な略奪を始めた。関中の人々は項羽に対して失望したが、略奪に参加しなかった劉邦の名声は高まっていった。
こうして秦王朝は滅び、項羽は実質的な天下の支配者となった。
「西楚の覇王」と名乗った項羽は、対秦戦争に功績のあった諸侯を各地の王とする。だが、懐王は項羽に対し「約のごとくせよ」と命令を下した。つまり、劉邦を関中の王にせよと迫ったのである。
だが項羽は「戦功がない懐王の約に効力などあるだろうか。天下を定めるのは諸侯とこの項羽である」と言い放ってこの命令を無視した。
もはや、項羽にとって懐王は完全に政敵であった。
楚漢戦争
秦が滅亡した後、項羽は楚の懐王を義帝として形だけ格上げし、自らは西楚の覇王と名乗って18人の王を分封した。
項羽は対秦戦争において自分とかかわりのあった諸侯を取り立てたが、直接かかわりのない者や、自分に逆らった者は功績があっても評価しなかった。
結果、劉邦をはじめ、斉の田栄(でんえい)、梁の彭越(ほうえつ)など、項羽の戦後体制に不満をいだいた諸侯や将軍の反乱があいついで起き、彼はその対応に追われることになる。
また、劉邦の反逆から数カ月後、項羽は義帝となった楚の懐王を僻地へ追いやり、英布に命じてその道中で殺害した。
目の上のたんこぶであった懐王を排除した項羽であったが、その代償は大きかった。
関中を制圧し西へ進軍していた劉邦は、懐王の死を知ると諸侯へ檄を飛ばす。劉邦は懐王の死を利用して、諸侯の盟主となって項羽を討つ大義名分を得たのである。項羽の懐王殺害は、宿敵である劉邦を利する結果となった。
紀元前205年4月。漢王劉邦と諸侯の連合軍は、斉の田栄を討伐していた項羽の留守を狙い、西楚の都・彭城を陥落させた。
楚漢戦争の始まりである。
この報せを受けて彭城へ急行した項羽は、わずか3万の精鋭兵を率いて、劉邦率いる総勢56万の連合軍を撃破した。(※彭城の戦い)
驚異的な速さと強さを誇る項羽軍は、20倍近い連合軍をあっという間に崩壊させてしまったのである。
戦場からいち早く脱出した劉邦は、義理の兄である呂沢(りょたく)の軍勢を吸収して関中へ帰還。その途中で使者を派遣して、項羽のもとで王となっていた英布を裏切らせた。
鉅鹿の戦いや函谷関の攻略などで勇名を馳せた英布は、秦滅亡後は項羽と距離を置いていた。
懐王殺害という汚れ仕事を押し付けられた不満があったのだろうか。ともかく、項羽は貴重な手駒を失った。
関中で態勢を整え、洛陽の東側にある城に籠城した劉邦であったが、十重二十重に城を取り巻く楚の軍勢の前に、手も足も出なかった。
1年ほどの攻防戦の末、進退きわまった劉邦は、将軍・紀信(きしん)を囮に使って城を脱出する。
項羽は、またしても劉邦に逃げられてしまった。
四面楚歌
しかし、劉邦が籠城で時間を稼いでいる間に、天下の大勢は少しずつ漢に傾き始めていた。
漢の別働隊として動いていた韓信は、北方の魏や趙、燕といった諸国を征服し、そのあとに斉を攻め落とした。
そして、劉邦に味方した彭越が、楚軍の補給網を切り裂き、食料を焼き払う。項羽が彭越を討伐しに向かうと、漢軍は手薄になった楚軍を破り、勢力を盛り返していった。
また、劉邦の参謀・陳平(ちんぺい)の手によって、大規模な内部分裂工作もおこなわれていた。
その結果、項羽の参謀であった范増は楚軍を去り、鍾離昧(しょうりまい)や周殷(しゅういん)など、主だった将の項羽との関係は著しく悪化した。わずか1年ばかりの間に、項羽の背後と足元は崩壊寸前まで追い詰められていたのである。
そして紀元前203年、韓信は斉に進軍した楚軍20万を撃滅し、項羽に致命的なダメージを与えた。
彭越や韓信の活躍によって食料や兵力に乏しくなってきた項羽は焦り、劉邦から提示された和議を受け入れる。
だが、劉邦は最初から和議を守るつもりなどなかった。
韓信や彭越、英布、漢へ寝返った周殷らの軍勢が劉邦のもとへ集まり、疲弊しきった項羽は追撃され、大軍に取り囲まれてしまった。
紀元前202年12月、ついに項羽は戦死し、ここに楚漢戦争は集結した。
項羽の最期の地は、垓下(がいか)であるとも陳下(ちんか)であるともいわれるが、定かではない。
天が我を滅ぼす
ここまで項羽の生涯をたどってきたが、彼は確かに最強の武将であったが、政治家ではなかった。
項羽は、あまりにも政治的な失策が多すぎたといえよう。
上司である宋義を殺害して兵権を奪ったこと、独断で諸侯の上に立って人事を行ったこと、秦滅亡後に諸侯の反乱を招いたこと、主君である懐王を殺害したことなど、その例は枚挙にいとまがない。
項梁が長生きしていれば、項羽を後継者として政治的に成長させることができたかもしれないが、そうはならなかった。
しかし項羽の行動は、当の本人からすればやむを得ないものであったかもしれない。
軍団のトップとして項羽を導いてきた叔父・項梁が戦死した後、彼はろくに政治的な経験もないまま、組織のいち派閥の長として振る舞わなければならなくなった。
武力だけしか取り柄のない世間知らずな若者が、突然海千山千の腹黒い連中を相手に、権力闘争を勝ち抜かなければいけなくなったのである。
頭を下げて大人しくしていたとしても、懐王や宋義が自分を抑え込もうとしている以上、身分や立場が保証されるとは限らない。それどころか、命が危うくなる事態も考えられる。
なによりも、項梁の打ち立てた楚国が秦打倒をかかげている以上、秦に勝利することは至上命題である。
項羽の取れる最適な選択肢は、やはり史実どおりに宋義や懐王を殺害し、自分が楚のトップに立つというものしかなかっただろう。
そして、最大の長所である項羽自身の強さが、最終的に自身の首を締めたといえるかもしれない。
項羽に率いられていた兵は確かに秦軍や漢軍を相手に神がかり的な強さを見せたが、その強さはあくまで彼自身が戦場に立ったときにのみ発揮されていた。項羽が戦場を離れた途端に劉邦は息を吹き返し、楚軍はあっさりと漢軍に打ち破られてしまう。
こんなことを繰り返していては、やがて追い詰められていくのは当然である。
また、項羽軍は外部の人間に対して閉鎖的な面があった。
韓信や陳平など、楚を離れてのちに漢に仕えた者は「項羽は礼儀正しく人を愛する」と評している。
だが、同時に韓信は「項羽は人材を配置して能力を発揮させることができない」とし、陳平は「項羽は論功行賞を好まないので人が離れる」とも語っている。
これはつまり、項羽軍はあくまで個人的な絆を重視する集団であり、実利や客観的な評価を重視する集団ではなかったということである。そういう集団は結束力が強く強固だが、外部からの参入者は集まりにくく、精神的なつながりが解けてしまった後はもろい。
時代の流れも、あまりにも性急だった。
秦の始皇帝が没し、楚漢戦争が終結するまでの歳月は、わずか十年にも満たない。その間、項羽はほぼ常に戦場にあり、腰を据えて政を学ぶ余裕などなかっただろう。
叔父・項梁の急死も含め、天は項羽に政治家としての成長の機会を与えなかったのである。
『史記』によれば、最期の場において項羽は「天、我を滅ぼす」と語ったという。
その言葉どおり、項羽を取り巻いていた時代、環境、そして運命のすべてが、彼を破滅へと導いたように思えてならない。
すなわち項羽は、項羽であったがゆえに滅びた、そう言えるのかもしれない。
参考 :
司馬遷著『史記』
佐竹靖彦著『劉邦』『項羽』 中央公論新社
藤田勝久著『項羽と劉邦の時代』 講談社
松島隆真著『漢帝国の成立』 京都大学学術出版会
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部