Yahoo! JAPAN

ことばひとつ、指先ひとつで誰かを深く傷つけてしまう前に【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま」

NHK出版デジタルマガジン

ことばひとつ、指先ひとつで誰かを深く傷つけてしまう前に【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま」

人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、韓国のいまを伝えます

 流行語、新語、造語、スラング、ネットミーム……人々の間で生き生きと交わされる言葉の数々は、その社会の姿をありのままに映す鏡です。本連載では、人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、辞書には載っていない、けれども韓国では当たり前のように使われている言葉を毎回ひとつ取り上げ、その背景にある文化や慣習を紹介します。

第1回から読む方はこちら。

#15 손가락살인(指殺人/ソンカラクサリン)

 ことばは時に人を追い詰めるナイフとなる。

 韓国ではこの20年あまり、インターネットの書き込みが原因で芸能人や一般の人が命を落とす事件があとを絶たない。そんな現実から「손가락살인(指殺人/ソンカラクサリン)」ということばが生まれた。いまでは日本でも耳にするようになったが、発祥は韓国だ。

 スマホやキーボードを打つ指先が、人の心をじわじわと削り、やがて命を奪ってしまう。その背景には、ネット中傷が社会問題として深刻化してきた経緯がある。匿名性や集団心理が、他人を傷つけかねないことばを放つハードルを下げ、被害を拡大させてきたのだ。

 今回は、この「손가락살인(ソンカラクサリン)」ということばが生まれた背景と、そこから見える韓国社会の姿をたどってみたい。

ネットは「顔の見えない戦場」

 韓国で「손가락살인(ソンカラクサリン)」ということばが広まった大きな背景には、繰り返し大きく報じられてきた芸能人の死がある。2008年、国民的女優と呼ばれたチェ・ジンシルが、ネット上の悪質なコメントに苦しみ、自ら命を絶った。

 その後も、f(x)元メンバーのソルリやKARA元メンバーのク・ハラといった若い歌手が、2019年に相次いで同じような道をたどった。ニュースが出るたびに「またか」ということばが世の中にあふれ、指先の一打がどれほど重いかを人々は思い知らされた。

 こうした悲劇は芸能界だけではない。一般市民がネット掲示板で誹謗中傷を受け、精神的に追い詰められて自ら命を絶つケースもある。匿名で誰でも自由に書き込めるオンライン空間は、感情のはけ口やうわさ話が一気に拡散する場にもなってしまった。

 2000年代初め、「PC방(PCバン/ネットカフェ)」に集まった若者たちが掲示板にアクセスし、顔の見えない相手に容赦なくことばを浴びせる光景が日常だった。韓国ではそうした利用者を「ネチズン(ネット市民)」と呼び、匿名のことばが飛び交う空間は「顔の見えない戦場」とも称された。

 「손가락살인(ソンカラクサリン)」という造語が社会に広がったのは、こうした事件と文化が重なった結果だ。便利さの裏側に、命を奪うほどの危険が潜んでいたのである。

法律が現実に追いつかない

 ことばの暴力をどう抑え込むか。韓国社会は、制度の面からも模索を続けてきた。

 2007年には「インターネット実名制」が導入された。大規模サイトや掲示板にコメントを残す際、住民登録番号などで本人確認を義務づけたのだ。匿名の無責任な中傷を減らす狙いだった。

 けれど現実は甘くなかった。名前を出しても悪口を書く人は減らず、むしろ名前を出してでも強気に発言する者まで現れた。加えて個人情報の流出が相次ぎ、利用者の不安を招いた。2012年、憲法裁判所は「表現の自由を過度に制限している」として違憲判決を下し、この制度は廃止された。

 その後、ネットの攻撃性はSNSの普及でさらに加速した。そこで注目されたのが、名誉毀損や侮辱罪の厳罰化である。韓国の刑法では「真実であっても公共の利益でなければ有罪」とされることがあり、日本に比べ処罰の範囲が広い。

 実際、ネット上の短い書き込みが裁判で争われる例はあとを絶たない。たとえば「ホテル女事件」。歌手スジを指して「国民のホテル女」と書き込んだユーザーが侮辱罪で起訴された。裁判所は「性的な関係を連想させ、名誉を著しく傷つける」と判断し、有罪とした。

 一方で「개(犬/ケ)」ということばを使ったケースでは無罪になった。顔を犬と合成して「醜い犬」と投稿した事件だ。裁判所は「不快ではあるが社会的評価を下げるほどではない」とした。同じ悪口でも線引きは難しく、判決のたびに議論を呼ぶ。

 こうして見ると、インターネット上で新しい問題が起き、それを後になって裁判が「判例」という形で整理する、その繰り返しが続いている。法律は常に「손가락살인(ソンカラクサリン)」の現実を追いかけているのだ。

 しかしインターネットの変化は速く、制度や裁判だけで根本的に解決するのは難しい。そのもどかしさが、韓国社会には常につきまとっている。

誰かを支えるためのことば

 ことばは人を傷つける刃にもなるが、時には支えにもなる。

 韓国では告発や支援の呼びかけがネットで一気に広がり、不正が明るみに出たり、弱い立場の人に支援が届いたりする例が少なくない。小さな事件でも、被害者や家族が事情を投稿すれば、同情や助言が集まり、記者や行政が動いて加害者が処分されることもある。

 災害や事故が起きるたびに実施されるオンライン募金は、驚くほど早く集まる。医療費のクラウドファンディングが数日で目標に到達することも珍しくない。広場の代わりにSNSのタイムラインが社会参加の場となり、コメント欄は弔意や連帯を示す寄せ書きの壁になる。数万の視線が「見ているよ」と寄り添う。その反響が、現場のケアや制度改善につながっているのだ。

 職場のハラスメントや賃金未払いの内部告発が拡散して、企業が謝罪に追い込まれた例もある。性暴力被害の告発が連鎖し、捜査や裁判が動き出した流れもあった。都市の真ん中で起きた殺人事件の現場に、匿名の弔いとメッセージが貼られていったこともある。いずれも、きっかけは一つの投稿だった。

 もちろん善意だけでは済まない。正義感が暴走した結果、誰かを追い詰めたり、デマが拡散して新たな被害を生んだりすることもある。匿名の証言をどう扱うか、真偽をどう確かめるかという課題も常に残る。それでも光と影が隣り合わせに存在するのが、いまのネット社会の現実だと私は感じている。

ことばの暴力とどう向き合うか

 日本でもネットの誹謗中傷は深刻な問題だ。だが韓国と比べると「社会全体でどれだけ直視するか」には差がある。

 韓国ではチェ・ジンシルの事件以降、有名人の自死が繰り返し報じられ、ポータルサイトのコメント欄の影響力もあって、ネット中傷は社会全体の問題とみなされてきた。

 日本でも被害はあるのに「一部の人の行為」として片づけられがちだ。法整備も進んではいるが、韓国ほど世論や政治が大きく動くことは少ない。韓国では事件のたびに法改正や規制強化の議論が湧き起こり、処罰も日本より厳しい傾向にある。

 ことばの使われ方にも文化の違いがある。日本語には相手を直接罵倒する単語が少なく、比較的冷静に論理で責める傾向があると言われている。韓国語は短く鋭い悪口が多く、その攻撃性が精神的ダメージを深めているのだろう。国際調査でも、SNSで悪口や嫌がらせを受けた高校生は日本4.3%に対し、韓国は10.1%と倍以上。数字の上でも違いが表れている。

 結局、日本と韓国の違いは被害そのものではなく、それを「どれだけ社会的に問題視するか」にある。韓国では悲劇が契機となって制度や議論が大きく動く。日本では「ネットいじめ」「誹謗中傷」と比較的やわらかいことばで語られ、深刻さがぼやけがちだ。

 ことばの強さと、それを受け止める社会の姿勢――そこに両国の違いがあるのではないだろうか。

指先ひとつで誰かを支えることもできる

 私自身も記事を出したとき、「もっともらしいことを言っているけれど、私は賛成できません」といったコメントを目にしたことがある。ほんのひと言でも、胸の奥に小さなトゲが残った。

 一方で「よくぞ言ってくれた」と励ますことばに救われたこともある。見知らぬ誰かの指先の一打が、心を折ることもあれば、立ち直らせることもある――それを実感しながら暮らしてきた。

 世宗大王がハングルを作ったのは、人を傷つけるためではない。誰もが読み書きできるようにと願ったからだ。日本語もまた同じだ。先人たちが工夫を重ねてことばをつないできたのは、人を生かすためであって、殺すためではない。

 ところが現実には、韓国で 「손가락살인(ソンカラクサリン)」ということばが生まれたように、文字は人を追い詰める道具にもなってしまった。応援のメッセージもあれば、心をえぐる一言もある。

 結局のところ、問題は文字やことばそのものではなく、私たちの指先の使い方なのだろう。その指先が誰かを傷つけるのではなく、支えるために動く社会であってほしい。

※「本がひらく」での連載は、毎月10日と25日頃に更新予定です。

プロフィール

金光英実(かねみつ・ひでみ)
1971年生まれ。清泉女子大学卒業後、広告代理店勤務を経て韓国に渡る。以来、30年近くソウル在住。大手配信サイトで提供される人気話題作をはじめ、数多くのドラマ・映画の字幕翻訳を手掛ける。著書に『ためぐち韓国語』(四方田犬彦との共著、平凡社新書)、『いますぐ使える! 韓国語ネイティブ単語集』(「ヨンシル」名義、扶桑社)、『ドラマで読む韓国』(NHK出版新書)、訳書に『グッドライフ』(小学館)など。

タイトルデザイン:ウラシマ・リー

【関連記事】

おすすめの記事