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「証言文学」の金字塔『戦争は女の顔をしていない』とは? 沼野恭子さんが読む、アレクシエーヴィチの名著【NHK「100分de名著」ブックス】

NHK出版デジタルマガジン

「証言文学」の金字塔『戦争は女の顔をしていない』とは? 沼野恭子さんが読む、アレクシエーヴィチの名著【NHK「100分de名著」ブックス】

東京外国語大学名誉教授・沼野恭子さんによる


アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』読み解き

戦争を「事実」ではなく「感情」で描いた証言文学の金字塔――。

プロパガンダに煽られ、前線で銃を抱えながら、震え、恋をし、歌う乙女たち。戦後もなおトラウマや差別に苦しめられつつ、自らの体験を語るソ連従軍女性たちの証言に寄り添い「生きている文学」として昇華させたのが、ノーベル文学賞作家・アレクシエーヴィチによる『戦争は女の顔をしていない』です。

『NHK「100分de名著」ブックス アレクシエーヴィチ 戦争は女の顔をしていない』では、日本人が「戦争」を自分ごととして考える機会として、ロシア文学研究者であり、東京外国語大学名誉教授の沼野恭子さんが解説します。

今回は、本書より「はじめに」を全文公開いたします。

2024年7月からは、NHK「100分de名著」関連書の累計発行1000万部突破フェアが、全国の書店で開催されています。

人びとの声を紡ぐ

 この本は、二〇二一年八月に放送されたNHKのテレビ番組「100分de名著」のテキスト「アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』」として口述筆記された四つの章に、「特別章」と「読書案内」を書き加えて、全体を整えたものです。

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは一九四八年、ソ連ウクライナ共和国で生まれました。父はベラルーシ人、母はウクライナ人です。生後間もなく、父の故郷であるベラルーシのミンスクに一家で移住し、一九七二年にベラルーシ国立大学ジャーナリズム学部を卒業。翌年から三年間、「農村新聞」紙で記者として働き、その後は「ニョーマン」誌に移ってルポルタージュ・評論部長を務めました。

『戦争は女の顔をしていない』の取材を始めたのは、この「ニョーマン」誌時代の一九七八年です。アレクシエーヴィチは、第二次世界大戦でソ連軍に従軍した女性たちのもとに足繫く通い、戦時中の過酷な経験、忘れ難い思い出、戦後の辛い体験やトラウマなどについて、じっくり耳を傾け、録音していきました。そして五百人にものぼる人びとの声を文字で再現し、紡いで、悲しみと苦しみに満ちた壮大な交響曲『戦争は女の顔をしていない』を織りあげたのです。

 その後の作品も、いずれも膨大な証言を編集して構成するという同じ手法で書かれた〈証言文学〉です。二〇一五年にノーベル文学賞を受賞したときの理由がまさに、「多声的(ポリフォニック)な作品は、現代の苦しみと勇気にささげられた記念碑である」「入念に人間の声のコラージュを作るという独創的な創作方法を用いて、時代全体に対する私たちの理解を深めてくれる」というものでした。大部分が証言から成るノンフィクション作品にノーベル文学賞が与えられた前例はなかったので、アレクシエーヴィチの受賞は驚きをもって迎えられましたが、私は、「文学」そのものの定義が押し広げられた、画期的な出来事だったと考えています。

 執筆言語は彼女自身の母語であるロシア語です。『戦争は女の顔をしていない』が単行本として出版されたのは一九八五年、ソ連のゴルバチョフ共産党書記長がペレストロイカを始めた年に当たります。それまで従軍女性については、ごくわずかなことしか知られていなかったのですが、『戦争は女の顔をしていない』によって初めて、約百万人もいたと言われる元女性兵たちの実態に光が当てられました。ペレストロイカが追い風となって、この本はたいへん話題になり、一九八〇年代末までにロシア語の原著が二百万部も売れ、二十以上の外国語に訳されたそうです。

 ソ連が崩壊した後、ベラルーシもウクライナも独立しますが、やがてベラルーシでは「反体制的」だという理由でアレクシエーヴィチの著作は出版できなくなり、二〇〇〇年以降、彼女は難を逃れてヨーロッパを転々としました。二〇一一年に帰国したものの、二〇二〇年八月の大統領選に端を発した民主化運動で、反体制派の政権委譲調整評議会の幹部に名を連ねたことから、現在は再び国外で活動せざるを得ない状況が続いています。

 なおアレクシエーヴィチは、二〇〇〇年に初めて来日し、二〇〇三年、二〇一六年と計三回、日本を訪れて講演などを行っています。

「100分de名著」の放送後、半年ほど経った二〇二二年二月二四日に、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を始め、世界情勢は大きく変化しました。またしても名もなき人びとが戦争に巻きこまれ、家を破壊され、家族や友人を失い、耐え難い苦しみを味わっているなかで、第二次世界大戦の「集合的記憶」を提供しているアレクシエーヴィチの著作は、ますます現実味(アクチュアリティ)を帯びてきていると思います。こうした観点から、本書の特別章は、侵攻開始以降の状況とそれに対するアレクシエーヴィチの見解を記すことにしました。

 本書の構成は以下のとおりです。

 第1章は〈証言文学〉としての『戦争は女の顔をしていない』の特徴について、第2章は女性のナラティヴの特徴や女性たちが受けた差別について、第3章は人びとを翻弄したプロパガンダについて、第4章は著者アレクシエーヴィチがめざす〈感情の歴史〉について、そして特別章は現状に対するアレクシエーヴィチ自身の声をお伝えします。

 アレクシエーヴィチの著作が持つ意義はいろいろありますが、まず挙げられるのが、風化していく戦争の記憶を後世に伝える役割でしょう。また『戦争は女の顔をしていない』の証言者は、為政者や高官といった「有名人」ではなく、何百人もの「市井の人びと」です。ふつうの人たちが戦争に巻き込まれてどんな経験をしたのか、どんなことを感じたのかを大事にしているところがとくに重要だと思います。

 また、アレクシエーヴィチには、チェルノブイリ原発事故をめぐる証言を集めた『チェルノブイリの祈り』という作品があります。東京電力福島第一原発の事故を経験した私たち日本人にとって、他人事ではない題材であることは言うまでもありません。さらに彼女は、アフガニスタン戦争、ソ連崩壊をテーマとする作品を執筆し、旧ソ連地域やロシアに限定されない差別の問題、自由の問題、民主主義の問題を取り上げていきます。これらもすべて、現代人にとって「現在進行形」のきわめて大事な問題です。アレクシエーヴィチの作品は、どの国に住んでいるかにかかわらず、現代を生きるすべての人にとって普遍的な問題を映しだす鏡のようなものと言えるのではないでしょうか。

著者

沼野恭子(ぬまの・きょうこ)
ロシア文学研究者、東京外国語大学名誉教授。東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業後、東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化単位取得満期退学。専攻はロシアの近現代文学。主な研究テーマは現代ロシア女性文学、日露の文化関係、ロシアの食文化など。主著に『ロシア万華鏡── 社会・文学・芸術』(五柳書院)、『夢のありか──「未来の後」のロシア文学』(作品社)、『ロシア文学の食卓』(ちくま文庫)など。共著に『アレクシエーヴィチとの対話──「小さき人々」の声を求めて』(岩波書店)。主な翻訳書にリュドミラ・ウリツカヤ『ソーネチカ』(新潮社)、リュドミラ・ペトルシェフスカヤ『私のいた場所』(河出書房新社)、トゥルゲーネフ『初恋』(光文社新訳文庫)など。
※刊行時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス アレクシエーヴィチ戦争は女の顔をしていない
 人びとの声を紡ぐ』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。

※本書は、「NHK100分de名著」において、2021年8月に放送された「アレクシエーヴィチ戦争は女の顔をしていない」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「逆走する歴史」、読書案内などを収載したものです。

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