言葉はどのようにして人を救うのか──小川洋子さんが読む、『アンネの日記』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
作家・小川洋子さんによる、アンネ・フランク『アンネの日記』読み解き #1
苦難の日々を支えたのは、自らが紡いだ「言葉」だった――。
第二次世界大戦下の一九四二年、十三歳の誕生日に父親から贈られた日記帳に、思春期の揺れる心情と「隠れ家」での困窮生活の実情を彩り豊かに綴った、アンネ・フランクによる『アンネの日記』。
『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記』では、『アンネの日記』に記された「文学」と呼ぶにふさわしい表現と言葉と、それらがコロナ禍に見舞われ、戦争を目の当たりにした私たちに与えてくれる静かな勇気と確かな希望について、小川洋子さんが解説します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第1回/全6回)
文学作品として日記を読む(はじめに)
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)によって「世界でもっとも読まれた十冊」のうちの一冊にあげられ、二〇〇九年には「世界記憶遺産」にも認定された『アンネの日記』。この書物の名を知らない人は、ほとんどいないと思います。
しかし、実際にひもといたことのある人、となると、どうでしょうか。
ナチス占領下のオランダでなにが起きたかを証言する貴重な財産であり、日本を含めた世界中の学校で必読図書に選ばれたこの『アンネの日記』ですが、あまりにも有名な本になってしまったために、タイトルは知っていてもじつは読んでいないという声を耳にします。あるいはアンネを、ホロコーストの犠牲者の代表者、反戦や差別撤廃を訴える運動のシンボルとして認識し、日記自体の内容を丁寧に読みとく契機を持たなかった人もいるでしょう。
そこで本書では、『アンネの日記』が本来持っている文学的な豊かさについて、真正面から考えてみたいと思います。思春期の少女が、なにを考え、なにを感じ、それをどのように表現したのか。ここにはみずみずしい青春の息吹がみなぎっています。大人への不満、とりわけ母親に対する反抗心や、理由のない苛立ち、性へのあこがれ、将来の夢、そういった思春期の子どもの内面が鮮烈に描き出されています。これほどリアルな少女の声が胸に響いてくる文学を、わたしは他に知りません。
たとえば、アンネは「わたしのなかには春がいて、それがめざめかけているのだと。全身全霊でそれを感じます。普段どおりにふるまうのには、ちょっとした努力が必要です」と書いています。子どもであることから卒業し、大人の階段をのぼりはじめた自分は、いまいる場所ではないどこかへ行こうとしている。でも、その先になにがあるのかはわからない──。思春期の只中にあって、未来へ大きな期待とすこしの不安を抱いている自分自身の気持ちを、こんなふうに客観的に見つめ、「春のめざめ」と見事に表現しています。このとき彼女はまだ十四歳です。
多くの人がアンネ・フランクと聞いて思い浮かべるであろう、ナチスの迫害を逃れて隠れ家に暮らし、強制収容所で死を迎えた悲劇の少女、というイメージはもちろんその通りなのですが、この書物はそれだけにとどまらない、豊かな広がりを秘めています。日記からは、聡明で、大人びていて、同時に触れるのが怖いほど繊細で、つねに人生を肯定しながら将来を夢見ていた、十三歳から十五歳のアンネの生の姿が浮かび上がってくるでしょう。
「優れた文学は必ず待っていてくれる」と、言われます。はじめて読んだときにはよくわからなくても、時を経て再びページを開けば、すっと理解できることがあります。わたしにとって『アンネの日記』は、作家として仕事をしていく過程でなんども読み返す機会が訪れる、縁の切れない本のひとつです。中学校の図書館で借りてはじめて読んだ際はピンとこなかったことも、十七歳で再読したら、時代や言語や環境の違いを全部飛び越えて、彼女のありのままの言葉が自分に届いてきたという体験をしました。そして、アンネの母親の世代となって読めば、また違った視線でアンネを見つめることができました。
ふと思い立ってぱらぱらと部分的にページをめくっても、あるいは腰を据えて最初から丁寧に読んでいっても、まったく退屈しません。言葉の魅力に満ち、読み返すたびに「あ、こんなところに、こんな宝石が隠れていたのか」と、新たな発見をさせてくれるのがこの本なのです。
『アンネの日記』を、歴史的意義を帯びた一冊として、構えて読むアプローチの仕方ももちろん大事でしょう。しかし、そういうことを一旦脇に置いて、いまを生きる現在の自分に引き寄せて読むことも可能です。そうすれば結果的に、当時ナチスが行った行為のむごさ、愚かさを、なおいっそう心の深いところで感じ取れるのではないでしょうか。
この日記が現存し、現代まで広く読み継がれるようになるには、奇跡としか呼べないいくつもの偶然が働きました。逆にいえば、どこかで偶然がつながり合わなかったために、誰の目にも触れないまま世界からそっと消えてしまった〝なにか〟が、この世には無数にあったはずです。『アンネの日記』を読むことは、そういう埋もれてしまった死者たちの想いや声をも感じ取る、貴重な体験となるでしょう。
本書が、みなさんにとって『アンネの日記』と出会い直すきっかけになれば幸いです。
著者
小川洋子(おがわ・ようこ)
作家。1962年、岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。91年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞。2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、06年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、13年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、20年『小箱』で野間文芸賞、21年菊池寛賞を受賞、同年紫綬褒章を受章。その他、小説作品多数。エッセイに『アンネ・フランクの記憶』、『遠慮深いうたた寝』などがある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記 言葉はどのようにして人を救うのか』(小川洋子著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利等の関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
*本書における『アンネの日記』の引用は、アンネ・フランク著、深町眞理子訳『アンネの日記増補新訂版』(文春文庫)を底本にしています。また、小川洋子著『アンネ・フランクの記憶』(角川文庫)を参考にしました。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年8月および2015年3月に放送された「アンネの日記」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「言葉はどのようにして人間を救うのか」、読書案内などを収載したものです。