『怨霊が都を動かした?』桓武天皇を震え上がらせた母子の呪い
怨霊から逃れるために遷都を重ねた桓武天皇
約390年間続いた平安時代は、その間に天皇親政→摂関政治→院政→武家政権の幕開けと、目まぐるしく政治形態が入れ替わった時代だった。
そのため、日本の古代史において、その始まりとなる平安京遷都は非常に重要な出来事と捉えられている。
平安京に都を遷したのは、第50代・桓武天皇だ。
学生時代に「794(なくよう うぐいす 平安京)」という語呂合わせで、遷都年の西暦を覚えた記憶がある人も多いことだろう。
画像:長岡京朝堂院復元模型(向日市文化資料館)wiki.c うぃき野郎
では、なぜ桓武天皇は奈良の平城京から、山城の長岡京・平安京へと遷都を行ったのだろうか。
その理由としてよく挙げられるのは、強大化した南都(奈良)の仏教勢力による政治介入を嫌ったためだという説だ。
しかし近年では、井上内親王・他戸親王と早良親王の「怨霊」から逃れるために、平城京から長岡京と平安京に遷都したという説も有力視され、高校の歴史教科書にも掲載されるようになった。
ここでいう「怨霊」とは、生前に受けた仕打ちへの恨みから、祟りなどの災いをもたらすと信じられた死霊を指す。
霊魂や幽霊の存在を信じる人は、現代でも少なくないが、科学が未発達だった近代以前は、人の死や怪我、疫病、天災などの不吉な出来事は、「怨霊」の祟りや呪いによるものだと広く信じられていた。
そして、平安時代には、政治的に非業の死を遂げた人間を神格化し、「御霊」として祀ることで「怨霊」の祟りを鎮めようとする「御霊信仰」が興った。
その鎮魂のための儀式が御霊会(ごりょうえ)であり、朝廷ではこれを重要な宮中行事として、禁苑の神泉苑で執り行っていたのだ。
今回は、桓武天皇に祟りを及ぼし、それが平城京を離れるきっかけとなったされる、井上内親王・他戸親王の「怨霊」についてお話ししよう。
非業の死を遂げた井上内親王と他戸親王
桓武天皇は、光仁天皇の第一皇子・山部王として生まれたものの、天皇の位に就ける立場にはほど遠い存在だった。
その理由は、生母である和史新笠(やまとのふひとにいがさ)、後の高野新笠にあった。
彼女は百済王族の子孫のため「卑母」と位置付けられ、光仁と結婚したものの、宮人(側室)という立場にとどまった。
一方、正室である皇后には、第45代聖武天皇の第一皇女・井上内親王(いがみないしんのう)が立てられた。
両者の間には歴然とした身分差があったのである。
そのため、光仁の皇太子には、井上内親王との間に生まれた他戸親王(おさべしんのう)が立てられた。
ところが、山部王にとって大きな転機が訪れる。
772年3月、井上内親王が夫・光仁天皇を長年にわたり呪詛していたとして皇后を廃され、さらに2か月後には、他戸親王も皇太子の地位を奪われたのである。
そして、事態はこれだけでは収まらなかった。
翌年10月、光仁の姉・難波内親王(なにわないしんのう)の死も井上内親王の呪詛によるものとされ、母子ともに庶民に落とされたうえ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)に幽閉されてしまったのだ。
他戸親王が廃されたことにより、光仁天皇には皇太子がいなくなった。そこで、773年1月、山部王が34歳で新たに皇太子に立てられた。
その後、山部王は781年4月、光仁天皇から譲位を受けて即位し、桓武天皇となる。
実はその6年前の775年4月、幽閉中だった井上内親王と他戸親王が、同じ場所で、しかも同じ日に亡くなるという事件が起きている。
もはや復権の望みがなかったこの母子の不自然な死については、絶望の末に自ら命を絶ったのか、それとも何らかの理由で殺害されたのか、いまだ明らかになっていない。
しかし、この謎に関する一説として、天智系皇統の復権に絡む説が唱えられている。
奈良時代の皇統は、第43代元明天皇(草壁皇子の妃)を除き、すべて天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子の系統、すなわち天武系によって占められていた。
しかし、第48代称徳天皇が生涯独身であったうえ、存命中の天武系皇族の中に天皇にふさわしい人物がいなかったため、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位し、ここに天智系が復権を果たしたのだ。
光仁天皇の即位の背景には、吉備真備らに代表される天武系皇族を支持する一派と、藤原永手をはじめとする藤原氏らによる天智系皇族の復権を望む一派との対立があったとされる。
最終的には、藤原蔵下麻呂(ふじわらのくじらまろ)や藤原百川(ふじわらのももかわ)らの運動によって、光仁天皇の即位が実現したが、天武系を推す貴族もなお多く存在していた。
そのため妥協策として、聖武天皇の娘である井上内親王を光仁の皇后とし、彼女との間に生まれた他戸皇子を皇太子に立てたのである。
そう考えると、井上内親王と他戸親王の失脚は、天武系皇統の復権を望まない藤原氏らの勢力による謀略だった可能性が高い。おそらく、事件の真相はこのあたりに隠されているのだろう。
いずれにせよ、井上内親王と他戸親王は、自ら関知しない政争に巻き込まれ、非業の最期を遂げた。
それは、さぞかし無念であったに違いない。
そして、二人の魂魄は、彼らを陥れた者たちに災いをもたらしていくのである。
相次ぐ天変地異と光仁にまつわる人々の死
井上内親王と他戸親王の死後、朝廷内外では不吉な出来事が相次いだ。
しかし、当時の正史『続日本紀』は、そのような記述をあえて避け、沈黙を貫いている。
だが、実際に災いは勃発した。
二人の死から3か月後、光仁即位を支持した参議・藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ)が、42歳で急死した。
蔵下麻呂は、藤原不比等の子である藤原四兄弟の一人、三男・宇合(うまかい)の九男である。
父と同様に武勇に優れ、主に武官として活躍したが、他戸親王の東宮大夫も務めるなど、その側近でもあった。
鎌倉時代の文献によれば、光仁は蔵下麻呂の死を、井上内親王と他戸親王の祟りによるものと考え、その霊を慰めるために奈良に秋篠寺を創建したという。
また、翌年9月には、夜ごとに大量の瓦や石、土塊が天から降り注ぎ、平城宮の屋根に積もった。
そして冬になると、まったく雨が降らず、近畿地方一帯が干ばつに悩まされることとなったなどの天変地異が『水鏡』に記されている。
さらに災いは、井上内親王排除に関係したと思われる人物たちにも及んでいく。
779年8月、光仁の即位だけでなく、山部王の皇太子擁立にも暗躍したとされる式部卿・藤原百川が、48歳で死亡。
『愚管抄(ぐかんしょう)』によれば、井上内親王が龍に化身し、百川を蹴り殺したという。
そして、光仁天皇と皇太子・山部王が、ともに正体不明の病に倒れ、床に伏してしまった。
天皇と皇太子が同時に病にかかるという異常事態に、朝廷内では祟りへの恐怖がさらに広がった。
これを受けて、光仁は井上内親王の遺骨を改葬し、その墓を御墓(みはか)と定めて墓守を置いた。
また、山部王は病が癒えるとすぐに伊勢神宮に参拝し、井上内親王と光仁との間に生まれた異母妹・酒人内親王を妃とした。
この山部王の行動は、天武天皇が創始した皇祖神・天照大神を祀る伊勢神宮に参拝することで、動揺する朝野に自分が天照大神の直系であることを示し、血統の正統性の保証を得るとともに、井上内親王の娘を妃とすることで、その鎮魂を図ろうとしたものと考えられる。
しかし、それでも災いは止まらなかった。
781年、光仁天皇の第一皇女であり、山部王の同母姉である能登内親王が死去した。
その直後、左兵庫に所蔵されていた武器が自然に鳴動し、大石を大地に叩きつけるほどの大きな音を発するという怪異が発生した。
70歳を過ぎても政務に励んでいた光仁天皇であったが、度重なる災いに心身ともに疲れ果て、781年4月、山部王に譲位して太上天皇となった。
しかし、その8か月後、心晴れぬまま崩御してしまった。
平城京を逃れても桓武に祟る怨霊たち
こうして、世の中は第50代・桓武天皇の時代へと突入していく。
だが、桓武天皇もまた、井上内親王と他戸親王の怨霊に怯え続けることとなる。
彼自身がどこまで関与していたかは別として、その即位が二人の犠牲の上に成り立っていたことを、重々承知していたに違いない。
そのような桓武の懸念は、即位の翌年782年に早くも表れた。
天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデターが発覚したのだ。
川継の父は、藤原仲麻呂の乱において天皇に推されながらも仲麻呂とともに殺害された塩焼王であり、母は井上内親王の同母妹・不破内親王であった。
このクーデター未遂事件は、桓武天皇に平城京からの遷都を決断させるに足る要因であった。
思えば平城京では、皇族や貴族を巻き込んだ血で血を洗う政治闘争が繰り広げられた。
長屋王、藤原広嗣、橘奈良麻呂、藤原仲麻呂をはじめ、大伴氏、佐伯氏、小野氏ら多くの人々の命が失われ、その魂魄は恨みを抱いて漂っていたに違いない。
皇太子時代から「怨霊」に苦しめられていた桓武天皇は、もはや平城京にとどまることに耐えられなかったのだろう。
783年3月、和気清麻呂を摂津職(せっつしき)に任命し、翌年には藤原種継と藤原小黒麻呂を中納言に昇進させ、新京である山城国・長岡京の造営に着手した。
しかし、呪われた地・平城京を逃れるために行われた長岡京遷都が、桓武天皇に新たな祟りをもたらすことになるのである。
※参考文献
佐藤信編 古代史講義 戦乱篇 ちくま新書
佐藤信編 古代史講義 氏族篇 ちくま新書
関裕二著 古代史に隠された京都の闇 PHP文庫
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部