第19回【私を映画に連れてって!】エミー賞18冠に輝いたアメリカ・ドラマ「SHOGUN 将軍」でその名を世界に轟かせた二人の〝開拓者〟真田広之と浅野忠信との出会い
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
真田広之さんとはあまりに長い付き合いで、初対面を思い出せない。
彼がまだ日大芸術学部の学生で「卒論を書いている……」という会話だけは覚えている。2歳違いなので、僕はフジテレビ入社2年目あたりか……。当時は<サニー千葉エンタープライズ>が事務所で、いわゆる<JAC>にも所属していて、アクションスターのイメージが強かった。千葉真一さんは仕事上の育て親の感じだった。
あれから40数年。テレビ局の社員でもあったので、本来は個人的に深く付き合うのはどうかとも思っていたが、志向が近く、週に1回くらい会うようになっていった。
テレビ局と芸能事務所の付き合いは深すぎると〝癒着〟関係になり、浅いと、ここぞのキャスティングの時に不利になったりする。芸能事務所主催のゴルフ大会や、夜のお誘いなど、顔を出すのが常識だった時代で、NHKの職員などは民放のプロデューサーと違い、スキャンダルネタにされていたこともある。僕は酒も強くなく、30歳手前からは、がん患者でもあったのでほとんどパスさせてもらった。
真田さんは<JAC>の中で黒崎輝さんや志穂美悦子さんととも看板スターであり、毎春休みには新宿コマ劇場で『ゆかいな海賊大冒険』という舞台のショーに出ていた。また、冬にはJAC主催のファンクラブ的なイベントで、スキーのインストラクターもやっているとのことだった。
『子猫物語』(1985)の宣伝を色々やっている時に、ホイチョイプロダクションのチームに出会い、彼らの自伝のようなスキー映画を創りたい! と持ち掛けられた。僕はスキーフリークではなく、たまに家族と苗場にスキーに行く程度だったが、局内で僕だけが映画部に所属していたことで、「やるかやらないか」の判断を求められることになる。
思いついたのはスキーのインストラクター的なこともやっている真田広之だった。
その頃は2人だけで会う機会も多くなり、彼の内諾をもらってスキーフリークたちの青春ラブストーリーをやると決めた。ところが1986年末~1987年の初頭はほとんど雪が降らず、結局奥志賀でクランクイン出来たのは4月に入ってからになる。
2月後半頃。映画撮影をやるのかやらないのかを決めることになり、キャストもリセット状態になる。振り返ると、今冬で撮影をやらなければ順延ではなく、映画製作は中止だったであろう。真田さんは春休みコンサートなどが入っていた。予定では1~2月撮影で本来はスキーシーズン中のはずだった。残念ながら真田さんは出演できなかった。それでも三上博史さんを抜擢出来たことは、『私をスキーに連れてって』(1987)にとっては大幸運だったと言えるだろう。
真田さんに対して「この借りはどこかで……」ということではなかったが、それから常に「真田広之」出演の映画の企画は考えるようになった。
『木村家の人びと』(1988)で、滝田洋二郎監督と一緒に仕事をしたことで、真田広之×滝田洋二郎の組み合わせを考えるようになった。僕は滝田監督のコメディ映画のセンスが大好きで『木村家の人びと』も僕が始めた<シネスイッチ銀座>の最初の邦画としてヒットし、モントリオール映画祭に呼ばれる等、評価もされた。
ところが、『木村家の人びと』の公開とほぼ同時に、骨の癌で東京女子医大に長期入院することになる。29歳だった。30歳の誕生日は抗がん剤を打ちながらベッドの上で迎えた。
森田芳光監督や滝田洋二郎監督ら多くの方がお見舞いに来てくれ、特にこの2人とのコミュニケーションから『病院へ行こう』(1990)が生まれたと言って良いと思う。コメディ映画のようなシチュエーションだった。この2人とはコメディ映画しか一緒にやった経験がなかった。
そして、ベッド上で満を持して、主演は真田広之(ストーリー上は自分だが)、担当してくれた女医は薬師丸ひろ子さん似で、周りの患者たちとの悪戦苦闘? の日々をノートに書き続けた。ノート上は「723(なにさ)の部屋」となっているので723号室に入院していたのであろう。女医が「なにさ!」と呟くシーンがあった。
人生は巡り合わせである。真田さんとはスキー映画では縁がなかったが、ここで彼は滝田洋二郎監督とも出会い、その後、立て続けに一緒に映画を創るのである。
僕にとっても、まさかの自伝? で真田さんに主人公を演じてもらうとは予想もしなかった。
▲2008年の第21回東京国際映画祭の文化庁映画週間で開催され好評を博したプログラム「映画人の視点」。2009年の第22回には、日本を代表する映画人・真田広之の世界「The World of Hiroyuki Sanada」が開催された。日本はもちろん、アジア、ヨーロッパ、そしてハリウッドとグローバルに活躍する俳優・真田広之が登場し、ゆかりのゲストと「映画人・真田広之」の足跡や演技術を語る〔カンファレンス〕と、本人が選んだ〝スクリーンで観てもらいたい作品〟、ファンが選んだ〝スクリーンで観たい作品〟を上映する〔スクリーニング〕の2部構成からなるオールナイト・イベント。ゲストには原田美枝子、唐沢寿明、浅野忠信らが登場し、モデレーターを映画プロデューサーである筆者が務めた。〔スクリーニング〕で、映画ファン投票により選出されたのは日本初上映であった『The City Of Your Final Destination』、〝スクリーンで観てもらいたい映画〟として『病院へ行こう』が上映された。
『病院へ行こう』の撮影中だったか、真田さんから事務所を辞めた! と報告があり、そこから数年間は、まさに影のマネージャーではないがマンツーマンで行動することが多くなった。フジテレビの社員ではあったが、彼と会うときは1対1なので個人的な話まで入り込んだ。
それから数年間は、結果として、僕の関わる映画を中心に出演することになり、目標は「海外で通用する俳優になる!」。たとえばダスティン・ホフマンのように……。
立て続けに『病は気から 病院へ行こう2』(1992)、『僕らはみんな生きている』(1993)、『眠らない街~新宿鮫~』(1993)に出演、すべて滝田洋二郎監督で、国内での映画主演賞はたくさん獲得できた。テレビでも「太平記」(1991/NHK大河ドラマ)や「高校教師」(1993/TBS)にも出演した。週に何回かは会って議論もしながらだった。
国内の賞や認知度、評価は達成できたとして、海外への進出へ。僕はカンヌ映画祭で賞を獲る以前に行ったことがなかった。師匠筋のヘラルド・エース代表の原正人さんが『写楽』(篠田正浩監督/1995)でカンヌ映画祭コンペティションを狙うとのことで、「真田広之」の提案をしてみた。結果はコンペにも選ばれ、主演としてレッドカーペットを歩けた。5年以上、色んな議論をしながら、ようやく海外への第一歩となるはずだった。これで自分のサポートの役割も終了かと。だが、好事魔多しというのか、アクシデントは表裏一体のごとく起きたりする。
プライベートでも離婚があり、アゲインストな風が吹いていた。
久しぶりに会い、その時、僕が初めてホラー映画にチャレンジしていたこともあり、『リング』(1998)に出演しないかと持ち掛けた。メジャー展開する映画への出演であることが重要だと思った。本来なら彼はホラー映画向きではないし、主演は松嶋菜々子さんだった。結果的には、『リング』は、アジア中でヒットし、アメリカでリメイクもされ、振り返れば、出演してもらって良かったと思う。
それからは海外をメインに、何といってもイギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニー公演『リア王』(1999)に史上初めて日本人キャストとして出演したことは大きい。一緒にいた頃は、さほど英語力は感じていなかったし、舞台、しかもイギリス英語である。初めて話を聞いたときは「大丈夫かな……」とも思ったが、見事に役を演じきった。他人には見えないところで恐ろしいほどの努力をしていたはずである。そして、2002年には英国大使館で大英帝国勲章まで授与された。僕は舞台に何ら関わっていないが、叙勲式に参加して、誇らしく思った。
▲1999年にイギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニー公演の『リア王』に、史上初めて日本人キャストとして道化役で出演した真田広之。英国文化普及に貢献したとして、2002年に名誉大英勲章第五位が授与された。右端が筆者。
その後の活躍はご存じの通りだが『ラストサムライ』(2003)に出演したことは大きなターニングポイントになっただろう。トム・クルーズやスティーブン・スピルバーグ監督はじめ、多くのハリウッド人脈を築き、「SHOGUN 将軍」(2024/Disney)に至るのである。『ラストサムライ』から20年。時々会っていたが、ただでさえハリウッド映画の中では日本人俳優はハンデを負っていた。それでも不屈の努力で、世界中の映画に出演し続けたことが今回のエミー賞18冠に繋がったと言える。
『ラストサムライ』でメインの役から一歩引き、敢えて日本の時代劇のあり方、作法や殺陣などを助言するサポート側のスタッフも兼任したことの集大成が「SHOGUN 将軍」に活かされ、表現され、世界に認められたということであろう。
「SHOGUN 将軍」と言えば、浅野忠信さんの存在感も強かった。先日、アメリカの伝統ある「ハリウッドレポーター」誌が選ぶ、「ザ・ハリウッド・レポーター(THR)トレイルブレイザー賞」に彼が選ばれた。直訳すれば「開拓者」の意だが「革新を切り拓き新たな道を創る先駆者」に贈られる賞とのことで彼にぴったりだ。
先日、東京国際映画祭関連でこの授賞式がザ・ペニンシュラ東京で行われ、招待をしてもらったので行ってきた。
実は真田さんと一緒にやった『新宿鮫』に浅野さんも出演してもらったので、そこからの付き合いだ。浅野さんから「僕が19歳の時だったので、もう30年以上前ですね……」と言われ、僕が歳をとったことも痛感した。当時は父親がマネージャーであり、事務所の社長であり、何度も3人で会った。『ACRI』(1996/石井竜也監督)に主演してもらったり、『PiCNiC』等にも。『スワロウテイル』にはカメオ出演も。
▲1996年、オーストラリアでの『ACRI』撮影時に筆者が撮った浅野忠信。
▲『新宿鮫』は、大沢在昌のハードボイルド小説シリーズで、映画化、テレビドラマ化、漫画化もされている。映画『眠らない街~新宿鮫~』は、1993年10月9日に東映配給で公開された。主演の真田広之は、本作と『僕らはみんな生きている』により日本アカデミー賞主演男優賞に、滝田洋二郎監督は監督賞にノミネートされた。脚本を『Wの悲劇』『ヴァイブレーター』『火口のふたり』(監督も手がけた)などの荒井晴彦が担当し、浅野忠信(写真は2点とも浅野の出演シーンから)、田中美奈子、室田日出男、奥田瑛二、塩見三省、余貴美子、大杉漣らが出演している。
2000年のカンヌ国際映画祭ではレッドカーペット上で再会した。彼は『御法度』(大島渚監督)、僕は『ヤンヤン夏の想い出』(エドワード・ヤン監督)で、逞しくなった彼を見て嬉しくなった。『ACRI』は、全編オーストラリアロケで、ほとんどが現地スタッフ。言葉の問題もあり、大いに苦労もしたはずだが、その後は海外との監督・スタッフとも積極的にコラボしていた。カーペット上でエドワード・ヤン監督を紹介すると流暢な英語で会話していた。まさに開拓者になっていた。
『新宿鮫』でこの2人が出会って30年以上。「SHOGUN 将軍」は巡り合わせのように、この2人の活躍を世界に轟かせた。
今度はアカデミー賞俳優賞を是非、2人には獲得してほしいと願っている。
▲アメリカのテレビドラマ「SHOGUN 将軍」により、東京国際映画祭協賛の「ザ・ハリウッド・レポーター・トレイルブレイザー賞」の、日本人俳優として史上初の受賞者となった浅野忠信。授賞式でのレッドカーペット後の浅野忠信と筆者(左端)。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。