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『国王をも改宗させた寵姫』王妃になれなかったガブリエル・デストレの悲劇

草の実堂

画像:ガブリエル・デストレ public domain
画像:ガブリエル・デストレ public domain

16世紀のフランスは、政情不安が続き、宮廷内も混乱に満ちた時代でした。

このような状況下でフランス王に即位したのが、アンリ4世です。

アンリ4世はもともと、若くしてキリスト教プロテスタントの一派であるユグノーの盟主となった人物でした。

そんな彼の人生に大きな影響を与えたのは、18歳年下の寵姫ガブリエル・デストレの存在です。

彼女の影響は、王の信仰だけでなく、彼が国民に「良王」と称されるほどの政治的手腕を発揮する原動力にもなりました。

今回は、このガブリエル・デストレという女性の生涯について詳しくご紹介します。

王の冷え切った結婚生活

画像:アンリ4世 public domain

1572年8月18日、カトリックとプロテスタントの融和を望んだ、王太后カトリーヌ・ド・メディシスの提案により、後にフランス王アンリ4世となるナバラ王アンリと、アンリ3世の妹マルグリット・ド・ヴァロワとの婚姻が執り行われました。

しかし、この結婚を祝うためにパリに集まっていた多くのプロテスタントたちは、聖バルテミーの祝日である8月24日、カトリック派による大量虐殺と略奪に巻き込まれます。

この「サン・バルテルミの虐殺」により、多くのプロテスタントが改宗か亡命を余儀なくされました。

画像 : サン・バルテルミの虐殺 フランソワ・デュボワ(1529-1584), ローザンヌ美術館 public domain

国内の宗教戦争は激化を続け、ついにはアンリ3世が凶刃に倒れる事態に発展します。

そして、この悲劇的な始まりを象徴するかのように、ナバラ王アンリとマルグリットの結婚生活もまた、最初から冷え切ったものでした。

二人の間に子供はおらず、互いに多くの愛人を抱えていることを隠そうともしませんでした。

やがて二人は同じ城に住むことすらなくなり、形だけの夫婦として過ごすことになったのです。

寵姫ガブリエルの献身

画像:ガブリエル・デストレ public domain

アンリ3世逝去に伴い即位したアンリ4世の心の慰めは、18歳年下でクーヴル侯の娘であったガブリエル・デストレでした。

ガブリエルは美しい金髪と長身の優雅な容貌に恵まれた女性で、敬虔なカトリック信者であると同時に、政治にも深い関心を持っていました。

その魅力は、かつてのアンリ2世の愛妾でありブレーン的存在であった、ディアーヌ・ド・ポワティエ(*)の再来と例えられるほどでした。

*ディアーヌ・ド・ポワティエについては
https://kusanomido.com/study/history/western/85443/

妻マルグリットとの冷え切った関係とは対照的に、ガブリエルのアンリに対する愛情は非常に献身的なものでした。

こうしてフランス宮廷で「王の寵姫」として知られた彼女ですが、その生活は華やかさとは程遠いものでした。

ガブリエルは何年にもわたって、戦場で反乱軍と戦い続けるアンリ4世に寄り添い続けたのです。
臨月の妊婦であっても、隙間風の吹き込む天幕で王に付き添い、食事や洗濯まで自ら手伝いました。さらには、資金調達に奔走したり、砲弾が飛び交う最前線で兵士たちを鼓舞したりと、命がけで王を支え続けたのです。

その献身ぶりは、信仰の面でも王に大きな影響を与えました。
ガブリエルの存在を通じて、1593年、アンリ4世はついにカトリックへと改宗します。

その後アンリは即位から約4年半を経て、カトリックの王として正式に戴冠を果たしたのです。

王妃の座を目前にして突然の最期

画像:アンリ4世の妻マルグリット public domain

アンリ4世の絶大な信頼と寵愛を受け、王妃の座が目前に迫ったガブリエルの人生は、幸福の頂点に達しようとしているかのように思われました。

しかし、皮肉にも運命は彼女に微笑むことをやめてしまいます。

1599年、アンリ4世は妻マルグリットとの結婚を無効とするようローマ教皇庁に申請しました。教皇庁はこの申し出を受理し、アンリとガブリエルは復活祭に合わせて結婚式を挙げることが決まりました。

7年にわたりアンリを支え、すでに3人の子供をもうけていたガブリエルにとって、正式な王妃となれることへの喜びは計り知れなかったことでしょう。

結婚式の準備のため、ガブリエルはフォンテーヌブロー宮殿に残るアンリよりも先に、意気揚々とパリへ向かいました。
しかし、到着したその夜に彼女の体調が急変します。妊娠5カ月で早すぎる陣痛が始まってしまったのです。

予定日より4カ月も早い分娩はガブリエルに大きな苦痛を与え、最終的に生まれた男児は無念にも死産となりました。

そして、復活祭を迎える前日の1599年4月10日、晴れてフランス王妃となるはずだったガブリエルは、わずか28年の生涯を閉じたのです。

悲嘆の王、しかし歴史は続く

画像:マリー・ド・メディシス public domain

ガブリエルの体調悪化の知らせを受けたアンリ4世は、急ぎパリへ向かいました。

しかし、彼女の最期に立ち会うことは叶いませんでした。

ガブリエルを深く愛していたアンリの悲しみは、言葉では表しきれないほどのものでした。死産による苦痛で硬直したガブリエルの遺体は痛ましく、弔問客が棺台で目にしたのは、彼女に似せた蝋人形でした。
アンリは黒一色の服を身にまとい、深い悲しみの中で喪に服するしかありませんでした。

しかし一方で、国民にとってこの出来事は異なる意味を持っていました。戴冠式で神から聖別された王が、寵姫を王妃に迎えることが叶わなかったのは、「神の御意思」であると受け止められたのです。

その後、アンリ4世はローマ教皇の認可を得て、新しい妃としてフィレンツェからマリー・ド・メディシスを迎え入れます。アンリとマリーの間には6人の子供が生まれ、ブルボン家の正統性を確立することとなりました。

悲運な最期となったガブリエルでしたが、彼女の死によりフランスは「正統な王妃」を迎え入れ、新たな歴史を紡ぎ出すこととなったのです。

参考文献:『美女たちの西洋美術史~肖像画は語る~/木村泰司(著)』
文 / 草の実堂編集部

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