れい子さんに捧ぐ
れい子さんが死んだ。「亡くなった」と聞かされて、
「あぁ、やっぱりかぁ」
と思いながら、私はれい子さんとのLINEのトーク履歴を何度も見返した。
れい子さんはいい人だった。いい人は早く死ぬのだ。いい人だから、長く苦しむことなく、良い思い出だけを残して、するりと向こう側へ行ってしまうのだ。
私は悲しい。れい子さんが亡くなったことを、すぐに知らせてもらえなかったことも含めて寂しい。
けれど、れい子さんと関わった時間が短い私には、知らせが無かったことに抗議することはできない。できないから、書いて気持ちの整理をつける。自宅を訪ね、ご霊前を前に手を合わせることもできないので、語ることで弔いとしよう。
れい子さんは、商店街の質屋で、長年にわたり番頭を勤めてきた女性だ。
今でこそほとんど客の来ない質屋だが、バブル期には、商店街のおかみさんたちが夕食の買い物ついでに中古の指輪をひょいひょい買って帰ったという。
フィリピンパブが流行った時代には、出稼ぎのフィリピーナたちが大挙して店に押し寄せて、母国で換金しやすい金のジュエリーが飛ぶように売れ、座る間もないほど忙しかったと聞いている。
そんな華やかだった時代には、店舗を増やし、れい子さんの他にもパート従業員を何人も雇っていたそうだ。けれど、日本がすみずみまで豊かだった時代は去り、今や質屋の利用者も買い物客も、減少の一途を辿っている。
店を構えている商店街にもかつての面影はなく、今では通りを歩く人の影もまばらだ。荒んでいく商店街と古びていく店の中で、れい子さんはオーナー夫婦とともに生き、年を重ねてきたのである。
店に残る最後のスタッフだったれい子さんがくも膜下出血で倒れたのは、一昨年の秋のことだ。
ヘビースモーカーでも持病がなく、健康なのが自慢だったが、後期高齢者入りを果たした老体には、いつどんな異変があってもおかしくない。
運の良いことに家族の前で倒れた彼女は、すぐに救急車で病院に搬送され、一命を取り留めた。
たった一人の従業員だったれい子さんが入院してしまったことで、人手不足に困っていたオーナーの娘から、「手伝いに来て」と声をかけられたのが私だ。
「うちは忙しい店じゃないから、座ってお客さんを待っている間は、好きなことをしていていい。かけもちで働いているなら、別の仕事をしていたっていいから」
と言われて、自分にはうってつけのアルバイトだと思ったのだが、見込み違いだったことはすぐに分かった。
店では80歳をゆうに超えるオーナーが一日中テレビをつけっぱなしにしており、家族間のお喋りもうるさい。そんな環境で原稿やブログを書くことは難しく、読書することもできなかった。
仕事は、れい子さんの代わりに店頭に来るお客さんの接客だけをしていれば良いと言われたものの、れい子さんが居なくなると、店には客が寄り付かなくなってしまった。
店と一緒に常連客も高齢化しており、貴金属の価格も高騰している。もはや販売している商品は、庶民が気軽に買える値段ではない。そんな中でもどうにか常連客を繋ぎ止めていたのは、ひとえにれい子さんの人柄と、日頃の営業努力のたまものだったのである。
私が店の仕事に辛さを覚えるようになるまでに、さほど時間はかからなかった。
暇であることよりも辛く感じられたのは、自分の知識やスキルを役立てられなかったことだ。
いまだに紙ベースの業務をデジタル化する手伝いを申し出ても、これまでのアナログな仕事のやり方を変えれば、かえって自分たちが内容を把握できなくなってしまうと反対された。
SNSでの集客を提案しても、「店頭に来る地元の客相手に商品を販売するより、都会の業者に転売する方が手間がかからず、儲かる」という方針のため、それも迷惑がられた。
事業を継ぐ予定のオーナーの娘は、そもそも客商売が好きではなく、愚直な店頭販売よりも転売で利鞘を稼ぐ方向にシフトチェンジを計っていたのだ。
しかし、それならばもはや店員も店舗も必要ないではないか。店番を引き受けたことを後悔し始めた頃に、れい子さんが帰ってきた。
寝たきりの入院生活で体力こそ落ちたものの、奇跡的に後遺症が残らず、日常生活は問題なく送れるようになったという。
ただし、原因となった脳動脈瘤は手術が難しく、応急処置しかしていない。再出血の可能性は非常に高いということだった。そのため、れい子さんの復帰を期に私は辞職を申し出たが、「辞められるのは困る」と引き止められた。
れい子さんが以前と変わらず働けるのか、その時点ではまだ分からなかったためだ。
れい子さんの復帰は喜ばしかったけれど、彼女が戻ってきたことで、私はますます仕事を任されなくなり、身の置き所がなくなっていった。
居心地の悪い思いをする中で唯一楽しかったのは、オーナー家族が都会の大会(質流れ品や買取品をせりで処分する市)に出かけて、れい子さんと二人きりで留守番をする時間だ。
れい子さんは話し上手で、聞き上手でもあった。一見ぶっきらぼうに見えるかざらない態度で、他人との間に垣根をつくらず、誰とでも打ち解けてしまう不思議な人なのだ。
二人でおしゃべりをしながらの店番は楽しかった。私は、れい子さんのように魅力的な年配女性が語ってくれる人生の歩みに、耳を傾けるのが大好きなのだ。
れい子さんは大阪出身で、若いうちに夫と死に別れてしまい、母親の出身地であったこの地へ流れついたという。
「私は最初の結婚が良すぎてねぇ。あんまり旦那のことが好きやったから、再婚はせんかった。旦那の顔、見てみる? 本当にいい男やったの」
そう言いながら見せてくれた写真の男性は、郷ひろみさんの若い頃のような、当時のアイドルっぽい顔をしていた。
「私は若い頃に、タレントの真似事をしよってね。女優を名乗れるほどではなかったけど、エキストラをしたりして、月に30万円くらい稼いだ。会社員の月給が10万かそこらの時代やから、すごいやろ?
それで、稼いだお金は大好きだった旦那に貢いだ。あの人、実はええところのボンボンで、私よりお金持ちやったんやけど、それを知らんかったもんで、50万もする高級腕時計を買ってあげたこともあるわ。貢いで、尽くしたおかげで結婚してもらえることになった時は、本当に嬉しかったわぁ」
と、自慢げに話すれい子さんは、なんだか眩しかった。
女は愛されてナンボ。貢がれてナンボ。結婚したら家庭に入って当たり前という価値観の世代のはずだが
「お金は自分で働いて、稼ぐもの」
という考えを若い頃から徹底している。実際に、れい子さんは働き者だった。
夫との死別後、傷心のままド田舎の集落に流れついた彼女は、そこで喫茶店を開き、朝から晩まで1日も休まずガムシャラに働いたそうだ。
「2階建ての店舗を借りて、2階で寝起きしてた。1階の喫茶店では、朝は7時からモーニングを用意して、昼になったら定食を出して、夕方からはお酒とおつまみも売って、店を閉めるのは11時。毎日倒れるように寝て、起きたら下へ降りて仕事。お店に出ずっぱりで働き詰めの生活を、7年くらいやったかなぁ」
その喫茶店を閉めた後は、市街地に移動してブティックを始めたそうだ。その頃にゴルフを通じて質屋のオーナー夫妻と親しくなり、店を手伝うようになったという。
大好きだったという旦那さんとの思い出話や、楽しかった時代の商売の話もよく聞かせてもらったが、オーナーの娘に対しては辛辣だった。
「昔は仕事がホンマ楽しかった。お客さんたちの顔を思い浮かべて、『これは◯◯さんが好きそう。こっちは△△さんの好み』と考えながら商品を仕入れて、お客さんに『いい品が入ったよ!待ってるね!』って、連絡したものよ。それが、娘の代になってからは退屈やわ。インターネットも結構やけど、もっと人との繋がりを大事にしてもらいたいね。あの子にはセンスってものがない」
などと、愚痴をさんざん吐いていた。
昔を懐かしむれい子さんの気持ちは分かる。しかし、昔ながらの地域に根ざした商売をしようと、ネットを使って転売ヤーになろうと、どのみち質屋という業種に未来はないのだ。それなら後のことを考えて、もう店頭の客を増やしたくないオーナーの娘の戦略も分からないではない。
そもそも事業承継に乗り気でない娘は、親が引退したら閉店するつもりでいるのだろう。
「もしこの店が閉まることになったら、れい子さんはどうするんですか?」
と、ストレートに聞いてみた。
「そうなったら、ご近所さんを相手に、自宅でガーデンカフェでも始めるわ。うちの庭は広くて、素敵やからね」
そう言って、数年前に建てたばかりだという自宅の写真を見せてくれた。れい子さんは贅沢をしないが、これまで働きづめで稼いだお金で、4回も家を建て直したそうだ。郊外に建てたという新しい家の自慢の庭は、確かに広くて立派だった。
私が、「もうこの店で働くのも限界だ」と考えたきっかけは、なんだったろうか。はっきりと覚えていないが、転職を決めて、辞めると伝えた時には、誰からも引き止められなかった。
「れい子さんが元気になったし、もう辞めてもらって大丈夫よ。就職が決まって、よかったやん」
と、あっさり言われ、拍子抜けしてしまった。れい子さんが元通りに働けるようになったとなれば、いまひとつ店の空気に馴染まない私はお荷物だったのだろう。
後腐れなく辞められて良かったと安堵する一方で、オーナーたちからは感謝の言葉もなく、別れを惜しまれることもなかったため、なんだか見放されたような虚しい気持ちで私は店を後にしたが、れい子さんとはその後も交流が続いた。彼女だけが別れの際に感謝の言葉とエールを贈ってくれ、その後も折りに触れて連絡をくれたからだ。
そういう温かくマメなところが、れい子さん個人に常連客がつく理由だったのだろう。
れい子さんからの最後の連絡は、3月3日だ。4月には姿を見なくなっていたから、彼女が再び倒れたのは、3月中旬〜下旬だろうか。
れい子さんが店に復帰して、ちょうど1年目ということか。
れい子さん本人が、もっと生きたい思っていたのか、死期を悟って身支度を整えていたのか、私には分からない。
「まだまだ頑張るわ」
と言ってはいたけれど、高確率で再出血することは医師から伝えられていたため、覚悟はしていたんじゃないだろうか。
良い生き方をした人だから、1年というボーナスタイムを、神様からプレゼントされたのだ。
ありがとう。れい子さん。
「今でも好き。ずっと好き」と言ってはばからなかった最愛の旦那様に、ようやく再会できて良かったですね。
どうぞ安らかにお眠りください。寂しいです。
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【著者プロフィール】
マダムユキ
ブロガー&ライター。
「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。最近noteに引っ越しました。
Twitter:@flat9_yuki
Photo by :Atul Vinayak