なぜスペインは「太陽の沈まぬ帝国」となったのか?──イベリア半島の異彩・特性とは【世界史のリテラシー:黒田祐我】
異なる文明世界の接触はスペイン、ポルトガルに何をもたらしたのか?
現在のスペイン・ポルトガルが位置するイベリア半島を舞台に起こった、キリスト教徒によるイスラーム教徒からの国土回復運動「レコンキスタ」。スペイン語で「再征服」を意味するこの衝突は、800年もの歳月をかけて、1492年のグラナダ陥落により終結したとされています。
この「レコンキスタ」が、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸到達や、スペインの隆盛に不可欠だった──ひとつの歴史的事件から、現在と未来を見通す「世界史のリテラシー」シリーズの最新刊『「再征服」は、なぜ八百年かかったのか』では、キリスト教とイスラームの異文化の接触がスペイン、ポルトガルにもたらしたものと、その影響を解説していきます。
今回は、神奈川大学教授の黒田祐我さんによる本書より、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるようになるスペイン帝国の地理的な特性、また文化的な特性についての解説を特別公開します。
なぜ、「太陽の沈まぬ帝国」が誕生したのか?
東西南北の結節点──地中海と大西洋、ヨーロッパとアフリカが交わるところ
十五世紀末に始まる、西回り航路でのアメリカ大陸への到達、これに続く探索と征服、そして入植。東回り航路でアフリカを迂回して、インドから東アジアまでの進出。いわゆる大航海時代が始まり、地球に暮らす人々がひとつに繋がりはじめます。とはいえ、それまで人類史の表舞台で目立っていたとは言えないヨーロッパ大陸の西のはずれに位置するイベリア半島が、なぜ突如として主役に躍り出ることができたのでしょうか。これは偶然ではなく、まちがいなく本書がこれまで扱ってきた中世という時代に明確な理由があるはずです。ですがまずは、イベリア半島が置かれている地理関係をいまいちどおさらいしておきましょう。
世界地図を一瞥いただければ明らかなように、東西を地中海と大西洋に挟まれ、南北でアフリカとヨーロッパの結節点となったイベリア半島では、古代から中世にかけて、複数の文明間の接触が繰り返されました。
まず東では、地中海に面しています。エジプト・メソポタミア両文明、そしてヘレニズム文明もまた地中海の申し子といっても過言ではありません。これらの文化を下地にしながら、ちょうど今から二千年少し前に、地中海圏の全域を政治的にローマが統合します。このローマのもとで大いに繁栄することになる地中海世界の西の一角を、イベリア半島が占めていました。すでに今から三千年ほど前には、東地中海からフェニキア人が、少し遅れてギリシア人が来訪し、続いてカルタゴとローマとの係争地になった後で、ローマの属州として大いに栄えた場、それこそ、イベリア半島でした。「スペイン」という国名自体、古代ローマ時代のイベリア半島名「ヒスパニア」に由来しています。ローマ帝国が滅び、中世の西ゴート王国時代、そして本書で扱ってきた時代にもまた、この地中海からの影響が数多く及んでいたことは、すでに述べてきた通りです。
続いて西では、大西洋に面しています。イベリア半島の北西部ガリシア地方には「フィニステーレ」あるいはガリシア語で「フィステーラ」と呼ばれる岬があります。直訳すれば「大地の終着点」、すなわちユーラシア大陸のはずれということになります。確かに、古代から中世にかけて、この地点よりも西側で陸地の存在は確認されていませんでした。
また最西端は、太陽が沈む場所に最も近い場と解釈されて、死後の世界というメタファーが付きまとう場所でもありました。このことは、サンティアゴ巡礼の聖地になったこととも大いに関係しているはずです。とはいえ、近世にアメリカ大陸が「発見」されると、大西洋を渡りアメリカへと漕ぎ出すうえで最も適した場所になりました。イベリア半島には、地中海という内海で長らく活躍したムスリムの航海技術と、大西洋という外洋での西欧キリスト教徒らの航海経験の両方を知悉(ちしつ)した船乗りが育まれる条件が整っていたと言えます。
さて北では、ピレネー山脈を伝ってヨーロッパ大陸と陸路で繫がっています。確かに急峻なピレネー山脈は交流の障害になりました。しかし中世には峠を通ってサンティアゴ巡礼路が整備され、ヒト・モノ・情報が激しく行き交っていました。現在のカタルーニャ地方では、山脈と呼べるほどの交通上の障害はなく、南仏と簡単に行き来することができました。海路において、イベリア半島北の大西洋沿岸部の港は、フランスやイギリス、そして中世西欧世界で最も都市化し経済的にも文化的にも栄えたフランドル地方(フランス北東部からベルギー、オランダ南西部にかけての地方)と交流を繰り返しています。これらの交流の結果、イベリア半島北部に勃興したキリスト教諸国もまた、この西欧世界のなかの一員としてのアイデンティティを当然ながら抱くようになっていきました。
そして南では、ジブラルタル海峡を隔ててアフリカ大陸と繫がっています。この海峡の幅は狭く、交流は古代からすでに濃密でしたが、本書が扱っている時代にマグリブ(北アフリカ)との関係が極めて重要となります。そもそもウマイヤ朝軍が八世紀初頭に上陸したのは、アフリカ大陸からです。半島情勢に直接介入したムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝などの本拠地があったのも、マグリブでした。
さらにマグリブからサハラ砂漠を越えたアフリカ大陸中央部とも繫がっていました。サハラ交易によって十一世紀以降、イベリア半島にも莫大な金貨が流入することになりますが、実は西欧世界のなかで金貨が最も早く流通した場所も、イベリア半島でした。スペインの貨幣単位で長らく用いられた「マラベディ」の語源をさかのぼれば、「ムラービト朝の貨幣(モラベティーノ)」に行き着きます。サハラ交易を押さえていたムラービト朝の鋳造する金貨の純度は極めて高く、当時の地中海世界では「基軸通貨」のごとき役割を果たしていたといっても過言ではありません。
このように東西南北、どの方角の影響も強く及び、かつ、それらの影響が相乗効果を生むという、いわば「いいとこどり」の地の利を享受していたのが、イベリア半島でした。この地の利によって生じたと断言してもよい、代表的な事象をひとつだけ紹介しておきましょう。それは、十二世紀ルネサンスにおける翻訳運動です。
一〇八五年の五月、かつての西ゴート王国の都であったトレードが、カスティーリャ・レオン王によって征服されます。十二世紀前半には、アラゴン王とバルセローナ伯によって、半島北東部のエブロ川流域が着々と征服されました。そして主としてこの二つの領域で、アラビア語に翻訳され保管されていた古典古代の知が、西欧世界の「公用語」であるラテン語に次々と翻訳されて、その内容が西欧世界で共有されるようになっていきます。古典古代を代表する哲学者アリストテレスや、イスラーム世界の知の大家イブン・シーナーの著作などもここで翻訳されます。これらの知を土台として、西欧では大学が各地に創立されます。なお十三世紀になっても、カスティーリャ王アルフォンソ十世の肝煎りでアラビア語文献の翻訳が進められています。ここで特に注目したいのは、天文学や幾何学といった自然科学に関連する学問の発展に大いに寄与した事実です。これによって天体観測器(アストロラーベ)の改良と利用が促進され、航海中の時刻や位置の測定がより正確となり、ひいては遠洋航海術の発展にもつながったからです。
アラビア語からラテン語(十三世紀であれば中世カスティーリャ語)への翻訳にあたっては、まさにイベリア半島ならではのハイブリッドな人材が大活躍します。アラビア語に堪能な通称「モサラベ」と呼ばれるキリスト教徒、キリスト教諸国内に居住するムスリム(ムデハル)、そして多言語を駆使することに慣れたユダヤ人。イベリア半島は、最先端の航海術を、未開拓の大海原で試すことができる地の利に恵まれていたといえるのです。
『世界史のリテラシー 「再征服」は、なぜ八百年かかったのか レコンキスタ』では、・キリスト教諸国は、アンダルス勢力にいかに対峙したのか?
・完遂までに、なぜ八百年を要したのか?
・なぜ「太陽の沈まぬ帝国」が誕生したのか?
・異なる文明の接触は、スペインに何をもたらしたのか?
という4章構成で、異なる文明世界の接触がスペイン、ポルトガルにもたらしたもの、また800年の歴史をたどりながら、大航海時代の幕開けを飾った両国の異彩・特性について考えていきます。
著者
黒田 祐我(くろだ・ゆうが)
神奈川大学教授。1980年、富山県生まれ。早稲田大学第一文学部西洋史学専修卒業。同大学大学院文学研究科博士後期課程史学(西洋史)専攻修了。博士(文学)。早稲田大学文学学術院助手、信州大学学術研究院(人文科学系)准教授、神奈川大学外国語学部准教授などを経て、現職。専門は中世スペイン史、地中海交流史。著書に『レコンキスタの実像――中世後期カスティーリャ・グラナダ間における戦争と平和』『レコンキスタ――「スペイン」を生んだ中世800年の戦争と平和』など。共著に『図説 スペインの歴史』など。
※刊行時の情報です。
■『世界史のリテラシー 「再征服」は、なぜ八百年かかったのか レコンキスタ』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビ等は権利などの関係上、記事から割愛しています。
■TOP画像:フランシスコ・プラディーリャ画『グラナダの降伏』(1882年、マドリード上院議事堂)