読者を信じて告白する夢「Dr.Shinoharaと呼ばれたい」――昆虫・動物だけじゃない、篠原かをりの「卒業式、走って帰った」
動物作家・昆虫研究家として、さまざまなメディアに登場する篠原かをりさん。その博識さや生き物への偏愛ぶりで人気を集めていますが、この連載では「篠原かをり」にフォーカス! 忘れがたい経験や自身に影響を与えた印象深い人々、作家・研究者としての自分、プライベートとしての自分の現在とこれからなど、心のままにつづります。第25回は篠原さんが普段あまり言わない「夢」をこのエッセイの読者を信じて宣言するお話です。
※NHK出版公式note「本がひらく」の連載「卒業式、走って帰った」より
Dr.Shinoharaと呼ばれたい
現在、私は、日本大学大学院芸術学研究科の博士後期課程に在籍している。
研究テーマは、「昆虫(益虫)をめぐる文芸表象研究」だ。ざっくりいうと、人が昆虫に対してどのようなイメージを抱いているか、それは、その昆虫のどんな特徴が影響を及ぼしているのかについて、文芸を中心とした文化から考察を行うという内容である。
つい先日、学会発表と博士号取得のための二次審査を終えてきたところである。発表が終わった瞬間に、数日間苦しんでいた胃の痛みや頭痛から解放され、かなり緊張していたことを実感した。そういう訳で、エッセイの更新予定をずらさせてもらった。
修士課程までは、分子生物学を専攻しており、博士課程で研究分野を変えるという珍しいことをした。今年度で、ちょうど同じ期間、それぞれの学問を研究したことになる。
どちらの大学院でも、すばらしい師に恵まれ、なんとか今もアカデミアの端っこにしがみついている。
生涯の住まいとなる学問を探して、分野を変えた。修士課程を終えて、分子生物学では、仕事と両立していくことは不可能だと感じたので、世界中どこでもできて、自分一人でも進められる研究分野を探して、今の専攻にたどりついた。
4年かけて、ようやく、自分が何をしていて、これから、何をすればいいのか分かりかけてきた。
大学院に入るずっと前から不思議だった。
私の目には、非常にプレーンな見た目に映っている「ゴキブリ」という昆虫が、なぜ、ここまで多くの飛び抜けた嫌悪を世間から集めているのか。
昆虫に対する苦手意識の根強い社会の中で、「ハチミツ」こと「ミツバチが唾液を混ぜて吐き戻した花蜜」だけが、なぜ、こんなにも信用されているのか。
他にも知りたいことはたくさんあって、今は、その答えを、世間と合意できる形で共有するための作業をしているのである。
「不思議に思って、調べ、考えること」が「研究」になるために必要なのは、説得力だ。この説得力は、誰がどのように言っているかで生み出されるものではない。その論文や発表単体で人を、社会を納得させるに足るよう説明し、知識としてまとめ上げることが必要とされる。
私の研究は、社会にお金をもたらすものではないし、誰かの病気を治すようなものでもない。でも、役に立たないということはない。
昔は、「今すぐ何か問題を解決するものではない」というものをそうでないものよりも軽んじていた。
それゆえ、もともとの分野で博士課程に進むことを断念した時は、「挫折した」と感じた。
なぜ、軽んじていたかというと、紛れもなく、私自身がそんな存在だと感じていたからだ。社会で活躍する同級生を見ながら、私って、ただ私がいるだけだなと思っていた。
何の役に立っているか分からず、ただ、私は楽しいという状況に負い目を感じていたのだ。
しかし、そんな何かを仕事としていく中で、いろんな人がたくさんの言葉をくれた。その言葉は、「具体的には役に立たない、ただの私」だと思っていたものを、「昆虫が好きな女の子の憧れ」だとか「自由に旅行に行けない人の希望」だとかいろんなものにしてくれた。
今の私には、「今すぐ何か問題を解決するものではない」ものの力を信じられる視野の広さがある。だから、心から自分の研究を愛しているし、完遂するために頑張れると思っている。
私は、博士号を取得したい。研究者になりたい。Ms.Shinoharaではなく、Dr.Shinoharaと呼ばれたい。文化昆虫学者と名乗りたい。
私は、夢を語るのが苦手である。望んでいたものが叶わない姿を他人に見られるのが怖いからだ。まだ遠い夢を語れる相手であるということが理由の一つで結婚したくらいには、夢を口に出すという行為に重みを感じている。
けれど、自分が夢破れることを直視できるくらいの強さは手に入れた。それに、この連載を1年続けていて、読んでくれている人を心底信用しているから、ここで言葉にしたいと思った。まだ叶うか分からない夢にもがく私を見守っていてほしいと思っている。二次審査を終えているからといって、中盤までは進んでいるというわけではなく、この二次審査は、「論文を提出します」という宣言のようなものなので、ここからの頑張りにかなりの部分がかかっているのだ。
今秋には論文を提出するので、夏には書き上げている必要があり、その後、口頭試問を行なって、合格と判断されると博士号が授与されるというスケジュールである。
本当に、「(少なくとも今年は)残念でした」という結末になる可能性も十分存在する。今までも「残念でした」という結果はいくつも受け取ったことがあるけれど、あんまり公にしていない。今回は、どんな結果になっても、知らせるつもりである。
以前、指導教官の一人に「強欲ですね」と言われたことがある。決して、非難めいた発言ではなく、冗談の一つなのだが、仕事も子どもを持つことも全て諦めずに博士号まで取得しようとする私は、実際、笑ってしまうくらいに強欲なのだ。昔話で例えるなら、「大きなつづらも小さなつづらも持ち帰ろうとする舌切りすずめのおじいさん」だし、「おにぎりも譲らないし、柿の種も欲しいさるかに合戦のかに」状態である。すずめは焦るし、猿は困惑するだろう。
「昔々、あるところに非常に強欲だけど、特に害のない人がおりました。」
この書き出しから始まる私の物語を、その欲の大きさにふさわしい大団円にするべく、あと半年ほどの時間、頑張ってみようと思う。
プロフィール
篠原かをり(しのはら・かをり)
1995年2月生まれ。動物作家・昆虫研究家/慶應 義塾大学 SFC 研究所上席所員。これまでに『恋する昆虫図鑑~ムシとヒトの恋愛戦略~』(文藝春秋)、『LIFE―人間が知らない生き方』(文響社)、『サバイブ<SURVIVE>-強くなければ、生き残れない』(ダイヤモンド社)、『フムフム、がってん!いきものビックリ仰天クイズ』(文藝春秋)、『ネズミのおしえ』(徳間書店)、『歩くサナギ、うんちの繭』 (大和書房) などを出版。
バナーイラスト 平泉春奈