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すし(寿司)のルーツは東南アジアにあり 原点は「馴れずし」スタイル

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すしは東南アジアが発祥?(提供:PhotoAC)

日本を代表する和食「すし」。今や世界中で人気があるすしですが、皆さんその発祥地やどのように人々へ広まったのかはご存じでしょうか。今回はみんな大好き「すし」の起源とその歴史を辿っていきます。

(アイキャッチ画像提供:PhotoAC)

すしは東南アジアが発祥?

すしの発祥には、大きくふたつの説があります。それは、東南アジアの山岳地が発祥だとする説と、同じく東南アジアの水田漁業が発祥とする説です。この項では、このふたつを詳しく説明していきます。

稲作文化をもつ「山岳地帯」発祥説

そもそもすしの発祥は日本ではありません。一説には東南アジアの稲作文化をもつ山岳地帯が発祥と言われています。日本ではないことも、海ではなく山というところも意外ですよね。

海から離れた山岳地帯では雨が多く、かつ塩も貴重なため、(淡水の)魚介類の乾燥や塩漬けが困難でした。そこで、魚介類を最低限の塩で漬けた後、米に漬け込み保存食とする方法が編み出されました。これがいわゆる「馴れずし」です。

日本でも滋賀県の「鮒(ふな)寿司」が馴れずしの一種として現在も食されています。

タイ・カオヤイ国立公園(提供:PhotoAC)

「水田発祥」説

しかし、このすしの「山岳地帯発祥説」に対し、文化人類学者の石毛直道氏は東南アジアの水田漁業が発祥ではないかと考察しています。

「西南中国からインドシナ半島にかけての山岳地帯では漁業が発達していないが、東北タイとラオスでは農民による水田漁業が発達しており、また水田耕作(米)と水田漁業(魚)が同じ場所で結合し、馴れずしとなったのではないか」と述べています。確かにこちらの説の方が筋は通っていますよね。

いずれにせよ、すしの発祥は日本ではなく、また海でもない、東南アジアの山や水田などであったことは確かなようです。

ラオスの水田風景(提供:PhotoAC)

日本へすしが伝来

すしは紀元前4〜前3世紀に稲作と共に日本へ伝わったと推測されています(考古学的資料が少ないので確定はできないそうです)。

古代においてすしはアワビやフナ、サケなどの魚介と、イノシシやシカなどの獣肉もあったとされています。後に天武天皇が「肉食禁止令」を出し獣肉が食べれなくなったこともあり、徐々に「すし=魚介類」と限定されて解釈されるようになります。

室町時代になると、馴れずしの作成過程で捨てていた米が勿体無いという認識から、発酵時間を短縮して米も一緒に食す「生成(なまなれ)」という文化が普及します。こうして徐々に今日におけるすしの原型が出来上がってきます。

アユのなれずし(提供:PhotoAC)

江戸時代には握りずし誕生

1668年の「料理塩梅集」という資料には生成(なまなれ)から変化し、すし作りに「酢」が使われたと記されています。酢の利用により乳酸発酵を行わずに酸っぱさを出す「早ずし」が広まっていきます。

江戸時代後期の句には握りずしの記述も出てきます。現在では「與兵衛(よへい)ずし」で有名な初代・華屋與兵衛が握りずしを考案したのではないかというのが定説です。

江戸に幕府が置かれ人口増加により魚介類の需要が増し、コハダ、アナゴ、アジ、キス……といった江戸湾で捕れる魚介類が貴重なタンパク源となります。こうして「江戸前ずし」が広まっていきます。

すし職人(提供:PhotoAC)

ファストフードなすし屋

この頃から明治にかけては屋台ずしが流行ります。今のようにお店を構えるすし屋は殆どなく、屋台ですしを売る、今で例えるならファストフードのようなすしが一般的でした。屋台ずしの繁盛と共に、魚に下味をつける過程を省き、生のままの魚の切り身をそのまま握るすし屋が出てきます。

旬の刺身を好む日本人にこれらはすんなりと受け入れられ、店側も売上向上とコスト削減になる合理的判断として、こうしたすしを主流としていきます。今日における客の好みに応じて素早くすしを握る江戸前ずしはこうして誕生しました。

そのような流れと冷蔵技術の発達に伴う魚介類の保存技術の向上により、次第にすしネタの種類も増えていきます。またそうした設備を置くためにしっかりとした店を持つすし屋が増えていき、徐々に屋台ずしはなくなっていきます。

握りずしの台頭

その後太平洋戦争が勃発、戦況悪化と食糧不足により食糧統制が厳しくなります。当然すしの用意も厳しくなり、各1種類ずつのすしで1人前を揃えるのが難しくなってきました。

そこで1種類のすしを2貫出す店が現れ始めます。今では当たり前の1皿にすし2貫の由来はここにあると言われています。

戦後も食糧統制は続き、すし屋は営業が困難となります。そこで東京都鮨商組合が有志で東京都と警察に交渉し「委託加工制」の許可が降ります。これは客が店に米を持参し、それをすし職人が1人前(10個)の握りずしに加工しても良いというものです。

こうして厳しい状況の中、握りずしは生き残り、逆に握りずし以外の押しずしなどが扱えなくなり、現在も「すし=握りずし」となったのです。

すし二貫(提供:PhotoAC)

現在のすし

委託加工制により徐々にすし屋が復活しますが、屋台ずしはなくなり、すし屋はやや高級なお店へとなっていきます。いわゆるハレの日の料理となり、ごちそうというイメージが定着します。しかしその後高度経済成長期を迎え、外食も当たり前になり、こうしたすしを格安で売る店が登場し始めます。

……このような長い長い過程を経て、現在皆さんが食べている「すし」の当たり前の姿が出来上がっていったのです。そして、今もすしは変化を続けています。

今日、フラッとその時の気分で気軽にすしを食べることが出来ますが、こうした歴史に想いを馳せると、いつも食べているすしが少し特別なものに見えてくるのではないでしょうか。

参考文献

大川智彦、『現代すし学』 旭屋出版、2019

<みのり/サカナトライター>

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