いったいなぜ? 読書に目覚めた韓国の若者たち――【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま」
人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、韓国のいまを伝えます
流行語、新語、造語、スラング、ネットミーム……人々の間で生き生きと交わされる言葉の数々は、その社会の姿をありのままに映す鏡です。本連載では、人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、辞書には載っていない、けれども韓国では当たり前のように使われている言葉を毎回ひとつ取り上げ、その背景にある文化や慣習を紹介します。第1回から読む方はこちら。
#4 텍스트힙(テキストヒップ)
先日、ソウルのカフェでこんな光景を目にした。若い女性がバッグからおしゃれな装丁の本を取り出して、そっとテーブルに置く。コーヒーカップと並べると、スマホでパシャリ。本のページを開くこともなく撮影に夢中になっている。どうやら「読書する自分」を記録しているらしい。
これまでカフェで多く見かけたのは、パソコンやタブレットを広げて仕事や勉強する人の姿だった。しかし最近、本を片手に時を過ごす人が目に見えて増えてきた。
この変化は「텍스트힙(テクストヒップ)」という言葉で語られる。「テキスト(Text)」と「ヒップ(Hip)」を組み合わせた造語で、読書をスタイリッシュに楽しむ潮流を指す。2024年の年初からはやりだした言葉で、いまや韓国の若者たちの間では、読書が「クール」で「かっこいい」行為だという認識が広がっている。
ハン・ガンのノーベル文学賞受賞(2024年10月)をきっかけに、텍스트힙(テクストヒップ)はいっそう注目を集めるようになった。SNS上では「#BookTok」「#북스타램(ブックスタグレム)」などのハッシュタグとともに投稿され、若者たちのトレンドになっている。
なぜ韓国の若者たちは、SNS全盛の時代に読書に夢中になっているのだろうか。その背景を探ってみたい。
飾る読書、シェアする読書、推す読書
韓国のZ世代(1990年代半ば~2010年代前半の生まれ)にとって、読書は単に知識を吸収する手段ではなく、自分を表現する手段のひとつだ。若者たちは「読む」だけでなく、「飾る」「シェアする」「推す」も含め、読書を総合的に楽しんでいる。
最近は、アイドルや俳優、YouTuberなどがSNSやメディアを通じて「おすすめの本」を紹介することが増えた。その本は話題になり、書店のベストセラーに躍り出ることも珍しくない。
たとえば、韓国の人気ガールズグループ「IVE(アイヴ)」のウォニョンが『超訳 ブッダの言葉』(小池龍之介)を紹介し「慰めになるし助けになる」と絶賛すると、一気に15万部を突破するベストセラーになった。
また、俳優のハン・ソヒが雑誌のインタビューで、ポルトガルの国民的詩人フェルナンド・ペソアの『不安の書』を紹介すると、書店での販売数は急増した。
このごろは、俳優やアイドルが空港で本を手にしている姿がキャッチされると、それもネットニュースやSNSの話題になる。「空港ファッション」ならぬ「空港本(공항책〔コンハンチェク〕)」というトレンドまで生まれた。「推しが持っていた本」は、ファンにとって瞬く間に「読むべき1冊」となる。
ファンは推しの世界観を共有する手段として本を手に取り、SNSで感想をシェアする。こうして読書は、従来のように一人でじっくりと味わうものではなく、人々が感情を共有するためのコミュニケーションツールとなった。
こうした動きが広がるに伴って、どんな装丁か、持ち歩いたときにどう見えるかも、読者の選択基準のひとつになった。韓国の書店では「映える本」がヒットしやすくなり、特装版や限定カバーの本が続々と登場。出版業界もそれを意識した展開を強化している。
「洞察を深める本」が大人気
朝の目覚めとともにスマホを開き、SNSをチェックし、ニュースを流し見し、ついでにショート動画を1本……のつもりが、気づけば30分。そんなデジタル漬けの生活のなかで、SNSではこんな声がちらほら聞こえてくる。
「スマホを置いて本を読んでみたら、頭の中がクリアになった」
「紙のページをめくる感覚が心地いい」
スマホの画面に慣れた目には、紙の手触りやインクの香りが新鮮に感じられる。「読書は最高のデジタルデトックス」という言葉が広がっているのも納得だ。
読書は若者にとって「自己成長の手段」にもなっている。韓国の大手書店「教保文庫」によると、2024年上半期の哲学書の売上は、前年比で43.1%も増加した。『40歳で読むショーペンハウアー』(カン・ヨンス)や『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ)、『不安な世代』(ジョナサン・ハイト)といったタイトルが売れている。
また、『デミアン』(ヘルマン・ヘッセ)や『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ)、『人間失格』(太宰治)など、哲学的要素を含む古典文学作品も若者の間で支持を集めている。텍스트힙(テクストヒップ)と言っても、単なるファッションやデジタルデトックスに留まらず、知的好奇心を満たす読書も増えていることは興味深い。
YouTubeやTikTokなどの動画配信プラットフォームでも、こうした「洞察を深める本」の紹介コンテンツがよく見られる。「この本を読んで人生観が変わった」「読後に深く考えさせられた」といったレビューが次々にシェアされ、若者の間で「洞察を深める本」が評価されているのが最近の特徴だ。
詩に夢中になる若者たち
텍스트힙(テクストヒップ)のムーブメントが広がるなかで、感性を刺激する本も注目を集めている。その代表が詩集やエッセイだ。
論理的に答えを導き出すものではなく、感覚的に受け止められるのがポイント。忙しい毎日のなかでも、短い言葉に深い意味が込められている詩やエッセイなら、手軽に心を整えることができる。「教保文庫」によると、2024年上半期の詩集の売上のうち、20代の購入者が26.5%を占めており、特に女性読者の間で人気が高まっている。
そもそも韓国は詩が日常に根づいている国だ。尹東柱(ユン・ドンジュ)や金素月(キム・ソウォル)といった国民的詩人の作品は学校教育でも親しまれ、ドラマのセリフでも詩の一節が引用されることがある。
日本でもSNSのプロフィール欄に好きな詩や歌詞を載せることはあるが、韓国ではさらに積極的に詩が共有される。カカオトークなどのメッセージアプリでは、知人から何気なく詩が送られてくることもある。
ある出版社が「人生詩(인생시〔インセンシ〕)電話」というユニークなイベントを試みた。「人生詩」とは「人生の一篇となる詩」のこと。特定の番号に電話をかけると、録音された詩の朗読を聞くことができるサービスだ。オープンからわずか3日で、11万件以上の利用があったという。
詩を「読む」のではなく「聞く」ことで、より直感的に詩の世界を感じることができる。この試みは、텍스트힙(テクストヒップ)で読書に目覚めたZ世代にとって新鮮な驚きだったことだろう。
「テキストヒップ」から「ライティングヒップ」へ
韓国では、「読む」だけでなく「書く」ことにも価値が生まれはじめている。それが「ライティングヒップ(라이팅힙〔ライティンヒップ〕)」だ。
好きな詩や小説の一節、哲学的なフレーズを手書きでノートに記すことで、言葉をじっくり味わい、思考を深める時間を楽しむ。デジタル社会に疲れた人々にとって、手を動かしながら言葉を噛みしめるこの時間は、意外なほど落ち着くのかもしれない。
最近、ガールズグループ「LE SSERAFIM」のウンチェが筆写に挑戦する動画を公開し、大きな話題を呼んだ。この動画は公開からわずか2日で10万回再生を突破し、「筆写」に対する関心の高さを証明した。
라이팅힙(ライティンヒップ)の広がりは、ブログ文化の復活にもつながっている。昨年から「ネイバーブログ」の新規開設数が急増し、2023年11月〜2024年10月の間に214万件もの新規ブログが開設された。これは前年から70%増加という驚異的な伸びだ。
特に、20代〜30代の利用者が急増し、全体の64%を占めている。XなどSNSの短い投稿では伝えきれない思考を深める場として、ブログが再評価されているのだ。
こうしてみると、「書くこと」の価値が、ただの記録から自己表現へとシフトしているのがわかる。かつては「日記を書く」「筆写をする」といえば、静かで個人的な行為だった。いまそれは、SNSを通じて「共有する楽しみ」へと変化しつつある。
テキストヒップが生まれ、ライティングヒップへと発展するなかで、言葉は「持つ」「飾る」「書く」「シェアする」と、その価値をどんどん拡張させている。
この流行は一過性のものだろうか。そもそも「ヒップ」という言葉が付くのは、それがまだ珍しく、特別に見えるからだ。しかし、流行は文化へと変わるもの。読書や手書きが一時的なブームにとどまらず、日常に根づいていくなら、それは単なる「ヒップなムーブメント」ではなく、新しい文化の誕生となる。
次はどんな「ヒップ」が生まれるのか、楽しみだ。
プロフィール
金光英実(かねみつ・ひでみ)
1971年生まれ。清泉女子大学卒業後、広告代理店勤務を経て韓国に渡る。以来、30年近くソウル在住。大手配信サイトで提供される人気話題作をはじめ、数多くのドラマ・映画の字幕翻訳を手掛ける。著書に『ためぐち韓国語』(四方田犬彦との共著、平凡社新書)、『いますぐ使える! 韓国語ネイティブ単語集』(「ヨンシル」名義、扶桑社)、『ドラマで読む韓国』(NHK出版新書)、訳書に『グッドライフ』(小学館)など。
タイトルデザイン:ウラシマ・リー