掛川西高を26年ぶり甲子園に導いた大石卓哉監督にロングインタビュー【前編】1年目は「地獄の始まり」生かした名将2人の教え
今夏、全国高校野球選手権(甲子園)に26年ぶりに出場し、60年ぶりの1勝を挙げた掛川西。2018年に母校に着任し、7年目を迎えた大石卓哉監督(44)に、監督として初の甲子園出場をつかむまでの悪戦苦闘の日々を振り返っていただきました。
就任1年目を「地獄の始まり」と表現するほど勝てなくて苦しんだ6年間。最後に拠り所となったのは2人の名将の言葉だったそうです。
静岡高前監督として春夏通算7度の甲子園、3度の明治神宮大会に導いた栗林俊輔さん(52)=県教委=と、常葉菊川(現常葉大菊川)で2007年春の選抜優勝を成し遂げ、1月に急逝した御殿場西前監督の森下知幸さん(享年62)。2人の教えをどのように生かし、突破口を開いたのか。インタビューの詳報を2回に分けてお届けします。
>>インタビュー【後編】 甲子園で選手が〝踊る〟には…
インタビュー
―掛川西に着任する直前の4年間は、静岡高で部長、副部長を務め、栗林前監督とタッグを組んで、甲子園に5度出場しました。
「掛川西に就任した1、2年目は栗林先生のマネをしてやろうと思っていました。練習内容とかトレーニングのやり方とか、口調まで。チームの作り方は栗林先生が最高だと思っていたので、マネしたら勝てると思っていました。
自分が一番、栗林先生のノウハウも、采配も分かってる。栗林先生が培ってきた人脈も全部使えるわけじゃないですか。県内で一番恵まれていると思って、なめてました。でも全然うまくいかなかった。地獄の始まりでした。選手は一応、聞いているふりをしていました。でもその言葉には自分の心が乗ってないから、きっと選手たちも『何言ってんだ』『勝っているのはお前じゃない』と心で反発していたでしょうね。
自分の中では経験を積んできたと勘違いしちゃっていたから。うわべですよね。絶対に勝てない。2年目の夏が2回戦でコールド負け。3年目の代替大会も2回戦で負けました」
―そのあたりから自分の色を出すようになった?
「自分の考えで、自分のペースで、自分のやり方でいこうと思ったんです。日々の過ごし方、声かけ、距離感。自分の色でチームをつくろうと。髪形を自由にしたり、冬の間は日曜日を休みにしたりしました。
(選手の自主性を尊重した)『リーガ・アグレシーバ』も導入しました。自分が入院したことがあって約1カ月半、練習に出られなかった時も何の問題もなかったんです。むしろ一度チームを離れて、気づきも多かったです」
―就任4年目で沢山優介投手(ヤマハ)、榊原遼太郎投手(国学院大3年)という左右の2枚看板を擁した夏も甲子園に届きませんでした。
「2人のいいピッチャーがいて、春の東海大会で優勝しました。そうしたら夏に勝ちたくなっちゃったんですね。周りにも優勝候補と言われて、OBは『今年行けなきゃ二度と行けない』みたいな雰囲気になった。
自分も『勝たなきゃ』と思っていた。ただ、あの時(采配が)ブレたんですよね。2人とも完投できたし、交互に先発でいいなと大会前は思っていました。でも思いのほか打てなくて、渋いゲームをやって勝ち上がり、プレッシャーを感じながら準々、準決と入っていったんです。
最後は守りに入ってしまった。準決勝の東海大翔洋戦は沢山が先発と最初から決めていたのに、榊原を先発させて(0−2で)敗れた。
前年からのエースは榊原でコントロールもいいし、度胸もある。沢山は秋になって伸びてきて、一冬越えたら本当にいい投手になった。でも、まだ榊原への信頼の方が厚かったのかもしれない。沢山は春から1点も取られてなかったのに、なぜあそこで沢山じゃなかったのか。何でブレたのか。すごい後悔をした。
遼太郎(榊原)に後から言われたんです。『翔洋には勝てる気がしなかった。(島田一)中学の時に、縦じま(東海大翔洋中)には勝ったことなかったんです』と。嘘だろう、先に言ってくれよと。
それくらい僕と選手に距離感があったんでしょう。言えなかったんだと思う。選手の心を把握しきれていなかった。強制的に飯を食わしたり、毎日毎日体重をはかって、減っていたら叱って。そうするとポケットにおにぎりとか突っ込んで体重計に乗るやつが出てきたり。
選手の心に寄り添えてないから采配ミス、起用ミスが起きたんだなと、冷静に考えると思いました。チャンピオンになれる、いい選手はいたけれど、監督と選手が本当の意味でつながっていなかったんだなと」
―今年の夏はどうだったんですか。
「今年は複数の投手がいたんですけど、全部予定通りにいきました。勝つために、準々決勝と準決勝は(2年生左腕の)加藤(瑞己)を使うと決めていました。それを見越して練習試合も加藤を先発させてきた。
大会中に(捕手の)堀口(泰徳)にも『加藤を使うからな』と伝えたら、『当たり前じゃないですか』と言われちゃった。こっちは勝負してるつもりで言ってるのに、当たり前って言われるとショックだったんですけど(笑)。選手が一枚も二枚も上手だなと。みんなに助けられた。選手たちはそこでやるって決められたら(準備して)やってくるんですよね」
―栗林先生の長男毅知選手が掛川西に入学し、昨秋から栗林先生が父母会長になりましたね。
「父母会長として毎試合見てるんです。プレッシャーですよね(笑)。ひどい試合して負けまくっているんですよ。何か一言、こうした方がいいんじゃないのとか言ってくれればいいのに、何も言わないので、不安になるじゃないですか。ただ、生徒には毎日が決勝だと思って練習しろと言ってるから、自分自身が日々プレッシャーを感じることも受け入れました。
甲子園に行くために掛川西に来て、トレーニングルームができて、マシンが増えて、寮があって、言うことない環境です。でも、夏が来るのが本当に嫌だった。
栗林先生に助けを求めようかと思った時期もありました。昨秋、県予選1回戦で負けて迎えた冬は本当に苦しくて。大会はないし、地道に練習するしかなくて。いっそのこと(チームに)入ってもらって、中からチームの足りない部分とか指摘してもらおうかと」
―そうしなかったのは?
「今年1月に他県の指導者も含めた勉強会が静岡で開かれて、栗林先生が講演したんです。そこで、自分の言葉だと思っていたことが、栗林先生の教えだったと気付いたんです。
3年目から自分の色を出そうとやってきたことが、実は全部、栗林先生のマネだった。『選手を大切にする』『勝負は準備で8割決まる』『徹底と継続』『全て甲子園基準』とか。
自分の中に教えが全部落とし込まれていた。結局、栗林先生の言葉が自分の指導の根幹なんだと。自分のものかのように勝手に思っていて、使っていたら実は丸パクリだった(笑)。ということは自信になるんですよ。
栗林先生が大事にしていることと、自分が今一番大事にしていることが同じ。やり方やタイミングさえ間違えなければ、これは大丈夫だぞという自信になったんです。真っ暗な中、ただがむしゃらにやっていて苦しかった。自分のやっていることが正しいかどうか、不安だったから」
―マネを脱却しようとやってきたのに、それで良かったんですか?
「静高で常勝チームをつくった監督の考え方が、何の違和感もなく、本質的に理解ができたということなんです。深くないですか?自分の中で本当に腑に落ちて、自然体でやっていたんですよ。これも栗林先生の言葉ですが『不易流行』。本質は変わらないんですよ。その中で、新しいことも取り入れるということ。
栗林先生と自分はキャラが全然違う。自分は詰めが甘いし、けっこう自由度も高い。それは性格だからしょうがない。でも念頭に置いているポイントは確実に教えてもらったことなんです。
講演では『監督の一方的な押し付けでは結果は出ない。選手が何を求めているかをよく観察して、それに応えていくことが大事』と話していました。『(自分が)勝ちたい、勝ちたい』でやってきたけれど、選手が勝ちたいなら、それをサポートすればいいんだと(自分に向けて)言われた気がしたんです」
―今年の夏は、そういう心境だったのですね。
「甲子園が決まってから(野球部コーチの)杉村(純哉)先生に『大石先生、今年勝つ気なかったですよね』と言われたんです。『去年は大会期間中ピリついてて話しかけにくかった』と。今年も必死でやってたんですが。
ただ、夏の大会前に野球のことは大して考えてなかったんです。メモに残っているのは好球必打とかサインの確認とかそのくらい。あとは姿勢良く立つとか、腕を組まないとか、呼吸はゆっくりとか。選手を信じる、自分を信じる、最後は笑顔とも。勝ちたいって書いてないんです」
(聞き手・編集局ニュースセンター部長 結城啓子)おおいし・たくや 1980年4月生まれ。掛川西高3年時の1998年夏に主将、遊撃手として甲子園に出場。中大では準硬式野球部に所属。2005年に浜松工高に理科の実習助手として赴任し、栗林氏が監督を務めていた野球部で2年間コーチを務めた。教員採用試験に合格して三ケ日高に着任。2011年春の静岡県大会で8強入りし、16年ぶりに夏の静岡大会のシード権を獲得。2014年から4年間、静岡高で栗林監督のもと副部長、部長を務め、春夏5度の甲子園、3度の明治神宮大会を経験した。2018年に母校・掛川西高の監督に就いた。