『ソ連が送り込んだ殺人ロボット』スタシンスキーの歴史を揺るがせた亡命事件
1961年8月のある夜、西ベルリンのアメリカ合衆国情報局に、地方警察から一本の驚くべき電話が入りました。
「ソ連の諜報員」と名乗る男が出頭し、アメリカ政府とのコンタクトを頼み込んできたのです。
その男の名は、ボグダン・スタシンスキー。
彼はKGBの暗殺スパイとして活動してきた人物でした。
亡命を求めた彼の口から語られた恐ろしい半生に、その後、世界は震撼することになったのです。
ことの発端は不正乗車
ボグダン・スタシンスキーは、1931年にウクライナ西部のリヴィウ近郊にある小さな村で生まれました。
教育者を志した彼は、中等教育を修了後、リヴィウの大学に進学しました。しかし、1950年にある出来事が彼の人生を大きく変えることになります。
村からリヴィウに向かう公共交通機関を利用した際、切符を所持していなかったために逮捕されてしまったのです。この一見些細な出来事が、彼の運命を大きく狂わせる契機となりました。
第二次世界大戦中、ウクライナはナチス・ドイツの占領下に置かれていました。この時期にスタシンスキーはドイツ語を習得し、流暢に話せるようになっていました。
その言語能力に目をつけた当局は、彼を釈放する代わりに、反ソビエト活動を行っていたウクライナ蜂起軍(UPA)の情報を提供するよう要求したのです。
こうしてスタシンスキーは、KGBのスカウトを受け、諜報活動に関与せざるを得なくなったのです。
おぞましい英才教育
こうして逃れることもままならず、KGBに入ったスタシンスキーへの訓練はおぞましいものでした。
完璧な殺人ロボットになるべく、長い時間をかけて人間的な感情を取り除かれていったのです。
実際の訓練内容については、当然公式な記録はありませんが、以下のようなものだったと伝えられています。
スタシンスキーは真っ暗な部屋で椅子に縛りつけられ、顔を動かすことはおろか、両眼はまばたき出来ないよう固定されました。漆黒の闇の中で全神経を集中させられ、正面に据え付けられたスクリーンに映し出されるのは、刑務所で実際に行われている残虐な拷問や処刑の光景でした。
数多と繰り返し映像を見せつけられ、スタシンスキーが何も感じられなくなると、今度は実際の刑務所に連れていかれます。
そこでは極寒の中、真っ裸で木に縛り付けられた人々が爪を剝がされたり、鞭で打たれたりといった拷問が行われているのです。一説には、スタシンスキーは幾度もこうした非人間的な行いを見学させられたといいます。
事実として確認されているのは、スタシンスキーが暗殺や諜報活動に必要な技術を徹底的に叩き込まれたということです。
彼は、毒薬の扱いや特殊な暗殺用スプレー銃の使用法、さらに諜報活動での変装術や爆弾の製造技術を学びました。
二年間こうした訓練を経た後、暗殺スパイとなったスタシンスキーは、もはや元の彼自身ではありませんでした。
本名も捨てさせられ、架空の東ドイツ人「ジョーゼフ・レイマン」という男に仕立てられたのです。
同郷人の殺害
ジョーゼフ・レイマンとなったスタシンスキーは、KGBの指示に従い、東ドイツに潜伏してさまざまな諜報活動を行いました。
その中で最も重要かつ重大な任務が、ウクライナ民族主義運動のリーダーであるレフ・レベトと、ステパーン・バンデーラの暗殺でした。
これらの人物はソ連にとって深刻な脅威とされており、彼らを排除することがスタシンスキーに課せられた使命だったのです。
スタシンスキーの冷酷な仕事ぶりは完璧なものでした。
1957年、スタシンスキーはまずミュンヘンに潜入し、レベトを暗殺します。
この暗殺には、KGBが開発した特殊な毒薬スプレー銃が使用されました。この銃はシアン化水素化合物を噴射する仕組みで、毒を吸い込んだ犠牲者は短時間で心停止を引き起こし、あたかも自然死のように見せかけられるものでした。
この手口で、レベトは瞬時に命を落としました。
さらに1959年には、同じくミュンヘンでバンデーラの暗殺を実行します。
この際にも改良型のスプレー銃が用いられました。これらの暗殺は、KGBの計画通りに冷酷かつ迅速に遂行されたのです。
任務を成功させたスタシンスキーは、ソ連の高い栄誉とされる赤旗勲章を授与されました。
暗殺の危機、そして亡命劇
しかし、スタシンスキーの心は決して平穏ではありませんでした。その理由は、ドイツ人の恋人インゲ・ポウルの存在でした。
インゲとの恋愛はすでに上司に知られており、彼の立場をさらに複雑にしていました。一流のスパイとなったスタシンスキーが、一般人であるインゲとの結婚を望むことは、KGBにとって受け入れがたい事態だったのです。
それでもスタシンスキーは、1960年にインゲとの結婚を強行します。この決断は、彼自身の立場を一層危ういものにしました。
結婚後、モスクワの自宅には盗聴器が仕掛けられ、郵便物は開封されるようになり、KGBによる監視が一層厳しくなったのです。
そして決定的な転機が訪れます。インゲが妊娠したのです。
スタシンスキーは上司に呼び出され、「インゲが出産のためドイツに帰国する事は構わないが、スタシンスキーは今後7年国外に出る事を禁止する」との命令を受けたのです。
この時点で、夫婦の立場が極めて危険な状態になっていることは明白でした。二人は暗殺を恐れ、常に神経を張り詰め、食べる物にさえ絶えず用心しなければなりませんでした。
そして結婚の翌年、インゲは出産を理由に東ベルリンに帰郷したのです。
インゲは故郷で無事に出産を終えましたが、数ヶ月後、スタシンスキーの元に悲報が届きます。
彼女からの電報には「生まれたばかりの息子が肺炎で命を落とした」と記されていたのです。
この知らせに、彼は大きな衝撃を受けました。
スタシンスキーは、悲しみに暮れる妻の元に駆けつけたいと上司に嘆願します。当初KGBは難色を示しましたが、感情的なインゲがどのような行動を取るかわからないという懸念から、彼の渡航を渋々許可しました。
こうしてスタシンスキーは厳重な監視のもと、東ベルリンへと護送されました。
そして息子の葬儀を終えた後、夫妻は亡命を決行します。
監視の目をかいくぐり、機を逃さず西ベルリンへと逃げ込み、警察に出頭したのです。
こうしてスタシンスキーは、亡命を果たしたのでした。
なお、ベルリン市が「ベルリンの壁」によって東西に分断されたのは、この亡命劇の翌日、1961年8月13日のことでした。
良心と贖罪、そして自由
翌年の1962年10月、ドイツの司法首都たるカールスルーエでスタシンスキーに司法の判断が下されました。
スタシンスキーは「自身が背負ってきた良心の重荷をおろしたい、そして平和を実現させる方法を世界に知らせたい」と陳述しました。
裁判長が下した判決は驚くべきものでした。
裁判長は「被告は生来平和主義者であり、国家が殺人を命じなければ、教育者になっていたかもしれない人物である」と述べたのです。
また、ソ連の情報機関について「政治的殺人を制度化している」と強く非難し、スタシンスキーを2件の殺人事件の「共犯者」として位置付けました。その結果、罪を減じられ、スタシンスキーにはわずか8年の禁固刑が言い渡されました。
この寛大ともいえる判決に、世界が驚いたのは言うまでもありません。
その後、スタシンスキーは予定より早く釈放され、消息は不明となりました。一部では、CIAに引き渡され諜報活動の詳細を提供したという説や、整形手術を受けた後、国外で新たな身分を与えられて暮らしているという説が語られています。
しかし、その後の彼の人生について確実な情報はなく、謎のままです。
ただ一つ言えるのは、国家権力よって明らかに人生が大きく狂わされた一人の男性が実在したということでしょう。
犠牲者の冥福を祈るとともに、スタシンスキーの人生は、国家が国民の幸福と平和に貢献する存在であるべきだという願いを、私たちに改めて思い起こさせます。
参考文献:『世界史・驚きの真相: 謎とロマンに溢れる迷宮を行く』桐生 操/著
文 / 草の実堂編集部