#2 日本最大の詩人=松尾芭蕉? 長谷川 櫂さんが読む『おくのほそ道』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
長谷川櫂さんによる、松尾芭蕉『おくのほそ道』読み解き
大震災後に歩む、芭蕉の「みちのく」。
松尾芭蕉の『おくのほそ道』は単なる紀行文ではなく、周到に構成され、虚実が入り交じる文学作品です。
『NHK「100分de名著」ブックス 松尾芭蕉 おくのほそ道』では、長谷川櫂さんが、東日本大震災の被災地とも重なる芭蕉の旅の道行きをたどり、「かるみ」を獲得するに至るまでの思考の痕跡を探ります。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第2回/全5回)
戦乱の時代のあとの最初の大詩人
芭蕉は日本を代表する最大の詩人です。イギリスは「シェークスピアの国」と呼ばれますが、それにならえば日本は「芭蕉の国」です。ほかに何人か候補は浮かぶけれど、紫式部も夏目漱石も芭蕉には及ばない。
現代から日本文学史を振り返ると、古代からつづく文学の流れのちょうど半ばに芭蕉という巨大なダムがそびえているようにみえます。それより前の文学はいったんこの芭蕉というダムに流れこみ、その後また芭蕉から流れはじめる。芭蕉以後は『源氏物語』も西行(一一一八─九〇)の歌も芭蕉がそのどこを選び、自分の俳句や文章にどう生かしたかが重要になります。
なぜ芭蕉は偉大なのか。『おくのほそ道』を読みはじめる前に、まずこのことについて考えておきたい。
いくつかの理由が考えられます。最大の理由は芭蕉が俳句の完成者だからです。日本で生まれた俳句は世界でいちばん短い定型詩です。ということは、今のところ宇宙でもっとも短い定型詩ということになります。その俳句を完成させたのが芭蕉です。では何をもって俳句を完成させたというのか。この点については、あとでみてゆきますが、ここで確認しておきたいのは次のことです。
俳句は万事シンプルであることを尊ぶ日本文化の象徴と考えられています。芭蕉はその完成者ですから、日本を代表する詩人となるわけです。このことこそ芭蕉の偉大である最大の理由なのですが、彼が生きた時代に分け入ってみると別の理由もみえてきます。
芭蕉が生きた時代は一六〇〇年代の後半です。詳しくいうと一六四四年(寛永二十一年)に伊賀上野(三重県伊賀市)で生まれ、一六九四年(元禄七年)、五十一歳(数え年)で大坂(大阪)で亡くなりました。天下分け目の関ヶ原の合戦(一六〇〇年)で勝利した徳川家康が開いた太平の世のただなかの生涯でした。
江戸幕府がもたらした太平の時代の前には応仁の乱(一四六七─七七)から百三十年以上つづいた戦乱の時代がありました。戦乱は京の都を発火点にして日本全土に広がりました。この長くかつ日本全土を巻きこんだ戦乱の時代が日本の社会や文化に与えた影響は想像を絶するものがあります。日本の歴史を眺めると、この戦乱の時代を境にして、それ以前の日本と以後の日本はまるで別の国であるようにみえます。
いいかえると、応仁の乱が巻き起こした戦火の中でそれまでの古い日本はいったん滅んでしまった。そして戦火の中から新しい日本が生まれたということです。このとき誕生した新しい日本が修正を加えられながらも現代までつづいているのですが、この新しい日本の最初の大詩人が芭蕉だった。
さらに踏みこんでみると、百三十年もつづいた戦乱の時代に都だけでなく地方の都市も戦火で焼け、荒れ果てました。これによって貴族や大名や寺社が保管していた多くの古典文学の文献が焼失したり散逸したりしてなくなってしまいました。いつの時代でも戦乱は文化の破壊をもたらします。
関ヶ原の合戦を最後に長い戦乱の時代が終わったとき、焼け野が原に立たされた当時の文学者たち(歌人、連歌師、俳諧師たち)を襲ったのは圧倒的な喪失感だったはずです。それは昭和の戦争(日中戦争と太平洋戦争)に打ちひしがれた日本人の喪失感、さらには東日本大震災を経験した現代人の喪失感と似ていなくもありません。しかし長く全国的な戦乱を体験した四百年前の人々の喪失感のほうがはるかに深刻だったはずです。この喪失感の灰の中から失われた古典をもう一度よみがえらせようという運動が起こるのです。
たとえば本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)(一五五八─一六三七)は一六〇〇年代前半を代表する京の美術プロデューサーというべき人ですが、彼は「嵯峨本」と呼ばれる美しい古典文学の本を次々に出版しました。『伊勢物語』『徒然草』『方丈記』などの名著がこのシリーズで華麗によみがえりました。表紙や挿絵には絵師の俵屋宗達(たわらやそうたつ)(生没年不詳)が筆をふるっています。中身からも装丁からも古典の香りが焚き染められた古い香のように立ちのぼる。光悦や宗達の仕事からわかるように、一六〇〇年代前半は日本における古典復興の時代(ルネッサンス)だったのです。
同時にこの時代は多くの古典文学の注釈書が書かれました。時代は少し下りますが、北村季吟(きぎん)(一六二四─一七〇五)は『源氏物語』『徒然草』『枕草子』『伊勢物語』などの注釈書を書きました。季吟がほどこした詳細な注釈には、過去の学者たちによって積み重ねられてきた研究が集約されています。季吟は和歌や俳句でも一家をなした人でもあります。
広範な仕事が評価され、季吟はのちに江戸の幕府に召し抱えられ、将軍家に和歌や古典文学を教える幕府歌学方(かがくかた)という職につくことになります。イタリアのルネッサンス時代にもレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロら芸術家たちがローマ法王庁や都市国家の君主たちに招かれて仕事をしていますが、これと似たルネッサンス的な光景が日本でもくりひろげられていたのです。
芭蕉は季吟に二十年遅れて生まれました。いわば次の世代の人です。しかも驚くべき因縁というべきか、芭蕉は季吟の俳句の弟子でした。季吟は当時の俳句の主流だった貞門派(ていもんは)の有力な俳人だったのですが、若き日の芭蕉はこの季吟に俳句を学んでいます。
季吟と芭蕉が一時期にせよ、師弟関係で結ばれていた。このことは何を意味するかというと、前世代の季吟たちが成しとげた古典復興の成果を芭蕉は自由に使って自分の俳句や文章を書くことができたということです。一六〇〇年代前半が古典復興の時代であったとすれば、芭蕉が生きた一六〇〇年代後半はそれを創作に生かした時代だった。つまり芭蕉は絶好の時代を生きたことになります。芭蕉が日本最大の詩人とされる背景には、こうした時代の力が働いています。
その芭蕉が人生の半ばを過ぎて古池の句を詠み、その三年後にみちのくへと旅立ちます。その古池の句とはどういう句で、芭蕉と当時の俳句にどういう意義をもっていたのか、そして芭蕉はなぜみちのくへ旅立ったのか。それを探るのが次の課題です。
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著者
長谷川 櫂(はせがわ・かい)
俳人。東京大学法学部卒業。読売新聞記者を経て俳句に専念。俳句結社「古志」前主宰、「ネット投句」選者、「季語と歳時記の会(きごさい)」代表。「朝日俳壇」選者、東海大学特任教授。俳論集『俳句の宇宙』でサントリー学芸賞(1990年)、句集『虚空』で読売文学賞(2003年)を受賞(ともに花神社刊)。『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書)、『俳句の宇宙』『古池に蛙は飛びこんだか』(ともに中公文庫)などの著書がある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■「100分de名著ブックス 松尾芭蕉 おくのほそ道」(長谷川 櫂著)第1章より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。
*第1章~第4章における『おくのほそ道』原文の引用は、尾形仂『おくのほそ道評釈』(角川書店)に拠ります。また、ブックス特別章の『おくのほそ道』全文は、同書より許可を得て転載し、編集部で作成した脚注を加えたものです。なお、そのいずれについても、読みやすくするために句の前後を一行分あけました。他の引用は「新編日本古典文学全集」(小学館)、「日本古典文学大系」(岩波書店)、「古典俳文学大系」(集英社)に拠ります。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2013年10月に放送された「松尾芭蕉 おくのほそ道」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たに「『おくのほそ道』全文」、年譜などを収載したものです。