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清水エスパルスは窮地に陥っても、オレンジサポーターの強力な援護で数々のドラマを生んできた。ベテランライターが最も印象深い試合は?

アットエス


【スポーツライター・望月文夫】
J1清水エスパルスは第10節川崎フロンターレ戦で公式戦の連敗を3で止めた。同点とされた終盤に退場者を出し、数的劣勢に苦しみながらもドローで終え、秋葉忠宏監督は「サポーターファミリーが勇気とエネルギーをくれ、我々の足を最後まで動かしてくれた」と、熱きアイスタのスタンドとともに奪った勝ち点1だったことを強調した。

ホーム・アイスタの熱きオレンジサポーターの後押しで、数的劣勢だったチームが耐え抜いて勝ち点をもぎ取った試合は過去にも何度もあった。最も衝撃的だったのが2003年11月15日第2ステージ第13節浦和戦だ。その日のアイスタも、川崎F戦とほぼ同じ1万7000人を超す両サポーターで埋まっていた。

2人退場から決勝ゴール

2003年11月15日、第2ステージ第13節浦和戦。安が決勝ゴールを決める


11位だった清水が、好調の首位浦和を招いた一戦である。Jリーグ発足時からのライバルは、中盤の山田暢久、長谷部誠(ともに藤枝東高出身、)、鈴木啓太(東海大一=現東海大翔洋高出身)、平川忠亮(清水商=清水桜が丘高出身)の県内出身カルテットを中心に序盤から深く攻め込んできた。

清水はギリギリのプレーでしのいでいたが、最初の予期せぬ事態は後半10分に訪れた。司令塔のMF澤登正朗が2枚目の警告で退場、首位相手に数的劣勢で残り35分以上を戦うことになった。

劣勢を受けサポーターがボルテージを上げ、後押しを受けた選手たちも懸命に相手に食らいついた。しかし後半30分にも守備の要DF高木和道が2枚目の警告でピッチを後に。そこまで無失点に抑え0-0と粘ってきた清水だったが、2人目の退場で戦況は一層厳しさを増した。

ところが失点も時間の問題かと思われた後半43分、歓喜の瞬間は訪れた。深く攻め込む相手のボールを奪い返すと、素早いカウンターで前線へ。パスを受けた元韓国代表FW安貞桓が、ゴール前へと抜けだし先制。その1点を守り切り、衝撃の勝ち点3を奪ったのだ。

まるで優勝したかのように盛り上がるオレンジサポーターを前に、安は「厳しい状況だったが、あきらめずにチャンスを待った。そのチャンスをくれた最大の功労者はサポーターの皆さんだ」と感謝を伝え、スタンドに深く頭を下げた。

負けられない事情があった

2003年10月8日、ナビスコ杯準決勝の浦和ー清水


このドラマチックな結末を呼び込んだ裏には、「浦和には絶対に負けてはいけない」事情があった。実はこの戦いの1ヶ月前、清水は浦和とナビスコ杯準決勝で対戦していた。

1戦目のホーム戦は終盤に退場者を出しながらも、序盤からのリードを守り1-0で勝利。しかし、1週間後のアウェーでの準決勝2戦目(8日、駒場)でまさかの1-6大敗。2戦合計で2-6となり、クラブ史上2度目の優勝を逃していた。

悔しい敗戦からわずか1か月後に訪れた浦和とのリベンジマッチは、選手もサポーターも「連敗はできない」と必勝を誓って臨んだ大一一番だった。

過去には「静岡、埼玉、広島」が御三家と呼ばれ、ともにサッカーどころを自負する地域。ましてやアイスタでの浦和戦は毎回のように小競り合いなどトラブルが起き、サポーターも「浦和だけには負けられない」という強い思いがあった。

変わらぬ太い絆

市民クラブとして誕生した清水はこの30年間、良い時も悪い時もオレンジサポーターの強力な援護を受けて、数々の奇跡を起こしてきた。秋葉監督は常に「オレンジファミリー」への感謝の言葉を繰り返し、変わらぬ強い絆で挑み続けている。

地元の願いは、しばらく遠ざかっている清水のタイトル奪取と日本サッカーをけん引してきた強い静岡サッカーの完全復活だ。オレンジサポーターとオレンジ戦士の太い絆は悲願達成へとクラブを大きく前進させるはずだ。
【スポーツライター・望月文夫】
1958年静岡市生まれ。出版社時代に編集記者としてサッカー誌『ストライカー』を創刊。
その後フリーとなり、サッカー誌『サッカーグランプリ』、スポーツ誌『ナンバー』、ス
ポーツ新聞などにも長く執筆。テレビ局のスポーツイベント、IT企業のスポーツサイトに
も参加し、サッカー、陸上を中心に取材歴は43年目に突入。

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