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69自治体に拡大した「子どもの権利条例」 なぜ川崎市で最初に制定? 「国連子どもの権利条約」批准30年で何が変わった?

コクリコ

子どもの権利を考える第1回~子どもの権利の成り立ち~。「国連子どもの権利条約」ができた世界的背景、子どもの権利条例はなぜ神奈川県川崎市で始まったのか。「国連子どもの権利条約」批准30年で“子どもの権利”の今を考える。全3回。

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2024年は、日本が1994年に「国連子どもの権利条約」に同意(批准/ひじゅん)して30年を迎えた年でもありました。「国連子どもの権利条約」とは、子どもが大人たちに守られる存在であると同時に、大人と同等の権利をもつ主体であることを初めて明確にした、子どものための「人権条約」です。1989年に国連総会で決定(採択)し、これまでに世界の196の国や地域が批准しています。

この条約を受け、日本では自治体が「子どもの権利」を保障する「条例」を制定する動きが全国にひろがりました。2001年に川崎市(神奈川県)で始まり、今(2024年12月時点)や69の自治体が「子どもの権利条例」を掲げています。

30年経つ今、日本の「子どもの権利」の現在地について、考えてみました。

背景は戦争で犠牲になった子どもたち

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1.差別されない権利。
2.子どもの最善が第一に考えられる権利。
3.生存し、健全に成長していく権利。
4.自分の意見を述べ、重視される権利。
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これらを4原則とする「国連子どもの権利条約」は、全54条で構成され、世界中の子どもたちが、安全な環境で安心して暮らし、固有の人格をもつ人間として尊重されて生きるために守られるべき権利を定めた国際法です。

背景には、2度にわたる世界大戦への反省がありました。

まず、1948年、無辜(むこ※何の罪もないこと)の市民が国のために命を奪われることのないよう「世界人権宣言」が採択されます。その後、戦争によって200万人ともいわれる子どもたちが犠牲になったポーランドから、「子どものための権利条約を作ろう」との提案がなされました。

そして1980年から本格審議が始まり、89年、国連の第44回本会議で全会一致で採択され、翌90年に発効されました。

ところが日本はこの条約を批准するまで、実に5年もの時間を要しました。世界で「158番目」という遅さです。学級崩壊など問題を抱える学校現場からの反発や、「子どもに権利など与えたら、一層わがままになる」といった誤解が、保守的な政治家の間に根強かったことから、批准が遅れたと言われています。

さらに批准から30年の間に、政府は国内の状況を5回にわたり国連に報告してきましたが、国連からは複数の項目について「取り組みが遅れている」と指摘され、「緊急の措置」をとるように勧告されてきました。

指摘を受けたのは「子どもの意見の尊重」や「体罰」、「家庭環境を奪われた子ども」などへの対応ですが、日本政府は長らく改善する姿勢を見せませんでした。

そんな中、国内でいちはやく「子どもの権利条例」を制定した自治体がありました。
神奈川県川崎市です。

地域の“市民会議”が条例を早める力に

2000年12月に「子どもの権利に関する条例案」が川崎市議会で可決、制定され、翌2001年の4月1日に施行されました。全41条の条例ですが、子どもが大人と同等の「人間」として尊重されるうえで重要な、7つの権利を明示しています。こんな内容です。

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1.いじめや差別、暴力を受けたりせずに「安心して生きる権利」。
2.自分のありようを他人から強制されない「ありのままの自分でいる権利」。
3.悩みや困りごとを相談できる大人に伝え、解決を目指す「自分を守り、守られる権利」。
4.遊んだり学んだり、時には休んだりして、「自分を豊かにし、力づけられる権利」。
5.何をやりたいか、どんな自分になりたいかなどを「自分で決める権利」。
6.学校の規則や市や区の決まり事の議論に、一人の人間として「参加する権利」。
7.生育環境や国籍、障がいの有無など、「個別の必要に応じて支援を受ける権利」。
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国連の「子どもの権利条約」の4原則をふまえ、さらに「子ども側」に歩み寄った内容になっています。

ではなぜ川崎が全国に先駆けてこの条例を制定できたのか。その理由を説明しましょう。

日本が「子どもの権利条約」を批准した1994年は、川崎市にとって市制70周年でした。当時の高橋清(たかはし・きよし)市長は、周年イベントとして「子ども議会」を開催。市内の小中学校、特別支援学校、そして外国人学校に通う子どもたちが集まり、身近な疑問から「未来の川崎」まで、幅広く意見を交換し、大盛況となりました。

周年イベントの数年前、川崎市では「地域教育会議」という住民自治組織が生まれ、市内全域に広がりました。

「地域教育会議」とは、1990年初めに川崎市内の各区と中学校区に設置された、学校教育と社会教育との「連携」を目指す住民自治組織です。地域住民と学校が協力し、子どもの支援や生涯学習活動などに、現在も取り組んでいます。

全国的に学校が荒れていた1980年代、川崎市でも、予備校生が両親を金属バットで撲殺するという衝撃的な事件が起きました。これをうけて1984年に「川崎の教育を考える市民会議」が開催されました。「子どもたちのために何をしたらいいのか」をテーマに、2年間にわたって市内242ヵ所で計4万人が集い、議論が交わされました。

このときの「市民会議」が形を変えて市内全域で根付いた一つの形が「地域教育会議」です。

早稲田大学名誉教授で、川崎をはじめとするさまざまな自治体の「子どもの権利条例」の作業に関わり続ける「子どもの権利条約総合研究所」顧問の喜多明人(きた・あきと)さんが、こう解説します。

「条例制定へと続くうえで、川崎独自の背景はありました。まず公害問題があり、在住外国人との共生の歴史があり、差別の問題や人権意識に取り組んできた長い蓄積がありました。そしてもっとも大きかったのが『地域教育会議』の実績だったと思います」

戦後まもなく京浜工業地帯に住み着いた外国人労働者たちの人権問題や、その子どもたちの戸籍の問題や教育問題など、固有の問題に対応してきた行政と、住民たちの歴史があったのです。

そのうえで、1997年の市長選で、3選を目指した現職の高橋清市長が「子どもの権利条例の制定」を公約に掲げて当選し、動きは一気に加速しました。

子どもの声を聞き250回以上の話し合いを経て制定

1998年9月から「条例検討連絡会議」が始まりました。そしてこの連絡会議の「作業部会」の座長を喜多さんが務め、学識者や不登校支援を続ける民間団体関係者などの大人14人と共に、9人の「子ども委員」が入り、対等に審議に参加しました。

喜多さんは座長として、大人の委員たちにこんな合意形成を図ったそうです。

「特に学識者は自分の持論にそって議論を進めがちですが、我々はあくまでもコーディネーター。子どもたちがどんな権利を求めているか、子ども自身の声を中心に考えよう」

その結果、子どもたちは自由に自分の考えを発言しました。

「学校は『指導』が多すぎる」とか、「自分の意見を大人は対等に聞いてくれない」などなど。喜多さんも、ある男子中学生の発言を、よく覚えているそうです。

「イイヅカくんという男の子で、今ブラスバンド部にいるけれど、本当はサッカー部に入りたかったのに、お母さんが『サッカー部はダメ。文化部にしなさい』と言うから仕方なくブラバンやってると。部活ぐらい自分で決めたかったと。『自分のことを自分で決めたい』という願いが切実なら、それはその子にとっての子どもの権利だろうと考え、『自分で決める権利』として形になりました」

作業部会のメンバーは250回以上の話し合いを重ね、一つ一つの「声」を審議し、条例案にしていきました。現在も多くの自治体の「子どもの権利条例」にかかわる喜多さんによれば、「多くの自治体では、条例案ができるまでの審議回数はだいたい10回程度」だそうです。いかに川崎が念入りに議論を重ねたか、一目瞭然です。

川崎市は今年、市制100周年を迎えました。「子どもの権利」にフォーカスした70周年から30年がたち、条例制定から四半世紀近くなり、いま改めて「子どもの権利」と向き合っています。次では川崎市の具体的な取り組みを紹介します。

取材・文/浜田奈美

フリーライター浜田奈美が、難しい病や障害とともに生きる子どもたちが子どもらしく過ごすための場として横浜に誕生したこどもホスピス「うみとそらのおうち」での物語を描いたノンフィクション。高橋源一郎氏推薦。『最後の花火 横浜こどもホスピス「うみそら」物語』(朝日新聞出版)

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