古墳が一直線上に?古都・藤原京から南へ伸びる「聖なるライン」の謎
藤原京の南にのびる「聖なるライン」
皆さん、「聖なるライン」という言葉を聞いたことがありますか?
おそらく、考古学に関心があり、奈良を訪れたことがある方であれば、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
「聖なるライン」とは、1970年代に京都大学の考古学者・岸俊男氏が提唱した学説です。
それによると、藤原京の朱雀門から南にまっすぐ伸びる中軸線上、あるいはその周辺に、天武朝の皇族に関係する古墳が多数点在しているというのです。
その範囲は、藤原京から壷阪寺まで及ぶとする説もあります。
この「聖なるライン」を支持する研究者たちは、これが偶然の配置ではなく、当時の為政者、すなわち天武天皇や持統天皇によって意図的に計画されたものと考えています。
一方、この説が提唱された当初から、「『聖なるライン』など存在しない」という否定的な意見も少なくありませんでした。
その主な理由は、ライン上に正確に位置しているのは、天武天皇・持統天皇の合葬陵である野口王墓(檜隈大内陵)のみであり、それ以外の古墳はすべてラインの西側に分布しているという点にあります。
なお、この「聖なるライン」とその周辺にある古墳は、主に7世紀後半から8世紀初頭、すなわち飛鳥時代末期に築かれたと考えられ、その中心的な古墳(いわば盟主墳)は野口王墓とされています。
では、「聖なるライン」とは本当に存在するのでしょうか?
以下に、その検証を進めていきましょう。
律令国家建設の象徴だった藤原京
ではまずは、この「聖なるライン」の中軸線となる朱雀大路を有する藤原京について、その概要をお話ししましょう。
日本の都といえば、平城京(奈良)や平安京(京都)が有名ですが、実はそれ以前にも飛鳥や難波などに多くの宮都が存在していました。
ただし、そうした宮都は基本的に大王(天皇)一代限りのものであり、代替わりのたびに別の場所へ遷都されていました。
その中で藤原京は、『日本書紀』によれば、天武天皇が676年に造営を開始し、その遺志を継いだ妻・持統天皇によって694年に完成された、本格的な都城でした。
645年の乙巳の変を経て、大化の改新を推進した天武・持統両天皇にとって、藤原京は律令国家建設の象徴ともいえる存在だったのでしょう。
藤原京は、日本で初めて、京内を東西・南北の道路で碁盤目状に区画する「条坊制」を導入した都でもあります。
この道路網の基準線となったのは、横大路や下ツ道といった、飛鳥時代前期に設けられたと考えられる官道であり、それらを基準に測量を行い、京内を整然と整備したのです。
繰り返しになりますが、藤原京は天皇一代限りの「宮(みや)」ではなく、恒久的な使用を前提とした「京(みやこ)」でした。 そのため、条坊制に基づく区画、道路、排水路などの本格的なインフラ整備が行われていたのです。
この藤原京の南正門が朱雀門であり、そこから南に延びる道路が、同京のメインストリートである朱雀大路でした。
藤原京は、律令国家確立期の都城として、中央集権的国家統治の中心に位置づけられました。
また、その造営には、律令国家としての理念や、中国(隋・唐)の都城を参考にした思想が色濃く反映されていたのです。
すなわち、藤原京建設の根底に流れる思想にも注目すべきと考えます。
中国では、伝統的な風水思想に基づき、王家の墳墓を都の南側に築くのが一般的でした。これは、王家の墳墓が都を守護する役割を持つと考えられていたためです。
したがって藤原京の南側に終末期古墳が集中するのは、この思想に合致しており、「聖なるライン」はやはり、天武・持統帝によって意図的に計画されたと考えるのが自然なのではないでしょうか。
そして、ライン上に位置しているのは、野口王墓だけで、それ以外の古墳はすべてラインの西側に分布しているという疑問については、こう考えてみてはいかがでしょう。
藤原京の北側は、いわゆる奈良盆地の中心で、そこは大和平野とも呼ばれるように比較的平坦な地形が広がっています。
しかし、藤原京の南側、すなわち明日香の地は、そのまわりを丘や山に囲まれた小さな盆地状を成します。 終末期古墳は、こうした丘陵の斜面を平地に造成してそこに築かれています。
現代と異なり、自然の山を切り崩して平地にするのは大変な大事業でした。
ですから、藤原京の朱雀門と野口王墓を結んだラインの南側に正確に古墳を築こうとしても、自然地形が許さなかったのです。
そのため、「聖なるライン」の西側、終末期古墳を築きやすい地形に古墳が集中したのではないでしょうか。
それでもなお、「朱雀大路上に古墳が存在しないのは不自然だ」という意見があるのであれば、筆者としては「聖なるライン」ではなく、「聖なるゾーン」と呼ぶ方がよりふさわしいと考えます。
重要なのは、藤原京の存在意義と、その南側に都を守る墳墓が築かれたという事実そのものではないでしょうか。
「聖なるゾーン」の天武・持統帝と関係の深い古墳
では、「聖なるゾーン」に含まれるエリアには、どのような古墳が築かれたのでしょうか。
まずは、676年の藤原京造営着手以降に築かれ、天武・持統天皇と関係が深いと考えられる古墳を、北から南へ列記しましょう。
野口王墓(檜隈大内陵)、鬼の俎板・雪隠古墳、中尾山古墳、高松塚古墳、キトラ古墳、マルコ山古墳、束明神古墳と続きます。
今回は「聖なるゾーン」の考察が主題ですので、これら古墳の詳細や被葬者に関する議論は、別の機会に個別に取り上げて検証しましょう。
ただし、これら7基のうち、野口王墓は天武・持統天皇の真陵とされており、その他の古墳も天武天皇の皇子たちが被葬者である可能性が高いと考えられています。
「聖なるゾーン」の藤原京造営前に築かれた古墳
続いて、「聖なるゾーン」に含まれるもののうち、676年の藤原京造営着手以前に築かれたと考えられる古墳を列記しましょう。
野口王墓から見てほぼ西側には、カナヅカ古墳、梅山古墳、岩屋山古墳、牽牛子塚古墳、越塚御門古墳があり、北側には丸山古墳、菖蒲池古墳、小山田古墳、植山古墳があります。
これら9基の古墳のうち、天武天皇・持統天皇と深い関わりが明らかになっている古墳は2基です。
牽牛子塚古墳は、天武天皇の母・斉明天皇の真陵とされ、天武の同母姉であり孝徳天皇の皇后であった間人皇女が合葬されています。
また、牽牛子塚古墳に隣接する越塚御門古墳には、天武の妃であり持統天皇の同母姉である大田皇女が葬られています。
このように見てくると、藤原京の南側一帯には、天武天皇の諸皇子たちの古墳が築かれ、天武・持統両天皇の肉親たちの墳墓も含まれていたことは明らかでしょう。
天武天皇と持統天皇は、中国の伝統的な風水思想を取り入れ、律令国家建設のための重要な都城である藤原京を守護する奥津城として、「聖なるゾーン」を構築したのではないでしょうか。
※参考文献
小笠原好彦著『検証 奈良の古代遺跡』吉川弘文館刊
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部