『パンドラの箱』から飛び出した災厄の女神たち 〜最後に残った「希望」
「パンドラの箱」の伝説は、ギリシャ神話における有名なエピソードの一つである。
神々が人類に初めて女性(パンドラ)を創造し、パンドラには「決して開けてはならぬ禁断の壺」が与えられた。しかし、好奇心に負けたパンドラがその壺を開けてしまうと、中から災厄が飛び出して世界中に広がり、人々は不幸や悪しき心を持つようになったと伝えられている。
本来は「壺」であり、「箱」というのは後に広まった誤訳であるが、ここでは一般的に知られている「箱」という表現で話を進める。
この箱の中の災厄はいつしか、夜の女神「ニュクス」や、争いの女神「エリス」の子供たちと同一視されるようになった。
なぜなら彼女たちの子供の多くは、人間の心の暗黒面を擬人化した神だからである。
今回も前回に引き続き、パンドラの箱から飛び出した禁忌の神々について解説をしていこう。
1. アーテー
アーテー(Ate)は、争いの女神エリスの子の一人であり、無謀・愚行・妄信・破滅などを司る禍々しき女神である。
ギリシャ神話に登場する神々の中でも特に凶悪な神の一柱であり、人間界に深刻な悪影響を及ぼしたとされる。
なぜならアーテーが存在する限り、人類は永遠に愚行を繰り返すことを定められているからだ。
パンドラの箱の伝説の他にも、アーテーが人の世に解き放たれた逸話がある。
ギリシャ神話の主神ゼウスは、大都市ミケーネの王位に、もうすぐ生まれる息子(かの有名な大英雄ヘラクレス)をつけたいと思っていた。
するとアーテーはゼウスに、次のような提案をした。
「”本日最初に生まれた子に、ミケーネの支配権を与える” と誓いを立ててはどうでしょう?」
ギリシャ神話の世界において誓いは絶対的なものであり、たとえ主神であっても背くことはできなかった。
ゼウスは自身のメンツと息子の将来の為に、この誓いを立てることにしたという。
だがヘラクレスよりも先に、エウリュステウスという別の子供が生まれてきてしまった。
誓いを破れないゼウスは激怒しつつも、渋々エウリュステウスに王位を授けるしかなかった。
そして怒りの矛先は、余計な提言をしたアーテーへと向かう。
ゼウスはアーテーの髪を鷲掴みにし、オリンポス(神々の住まう場所)から地上へ放り投げたという。
こうして邪神アーテーは地上に降り立ち、人類の心に悪心が生まれた。
アーテーが余計な提言をした理由は、ゼウスを愚行に導くことで混乱を引き起こし、彼女が司る「無謀」や「愚行」を広めるためだったとされる。
2. アムピロギア
アムピロギア(Amphillogiai)は、エリスの子の一人であり、口論・口喧嘩・水掛け論などを司る女神である。
これといって神話の存在しない設定だけの神であるが、「口は災いの元」と言うように、不用意な発言は往々にして自身への災いへと転ずるものである。
「舌禍による破滅を司る」という点では、先述したアーテーに近い神という解釈もできるだろう。
3. アンドロクタシア
アンドロクタシア(Androktasiai)は、エリスの子の一人であり、殺人・虐殺を司るという物騒な女神である。
古代ギリシアの詩人ヘシオドスが綴った「ヘラクレスの盾」という物語において、アンドロクタシアの存在は言及されている。
鍛冶の神ヘパイストスは、英雄ヘラクレスのために盾をこしらえたという。
その盾にはエリスをはじめとした、戦争にまつわる神々の恐ろしい姿が彫り込まれており、アンドロクタシアもその中の一神だったそうだ。
ヘラクレスは、この悍ましき盾を手に戦場を駆け抜けたのである。
4. パンドラ
箱を開けた張本人であるパンドラ自身も、災厄の一つだと考えられることがあった。
ヘシオドスの書いた「仕事と日」という詩には、次のようなエピソードがある。
人類が生まれた時、彼らは寒さに震え、飢え、夜の闇に恐怖していた。
そんな人類を憐れみ、プロメテウスという神が「火」を与えたところ、人類は暖を取ることを覚え、食材を焼き、明かりを灯し、やがて文明を築くに至った。しかし、同時に武器も作りだし、愚かにも人類同士で殺し合いを始めてしまった。
そんな人類に激怒したゼウスは、鍛冶の神ヘパイストスに「女」という存在を作り上げるように命令した。(当初、人類には男しかいなかったとされる)
そして誕生したのが人類初の女性、パンドラ(Pandora)だった。神々はパンドラに「決して開けてはならぬ」と言い聞かせ、箱を与えた。
しかし好奇心旺盛な彼女は、迂闊にもその箱を開けてしまう。
実はこれこそがゼウスの策略であり、パンドラが箱を開けることを最初から見越していた。
ゼウスの思惑通り災厄が世界中へとばら撒かれ、人の世は地獄と化した。
このエピソードは「女」という存在そのものが、災いであると謳っている。
ヘシオドスは非常に女性嫌いだったという説があり、また古代ギリシアの価値観そのものが女性軽視的だったことから、このような伝説が生み出されたのではないかと推測されている。
5. エルピス
災厄が飛び散った後、パンドラの箱の底に唯一残ったものが「希望」だったという。
この希望は、エルピス(Elpis)と呼ばれ、しばしば女神として擬人化される。
「箱の中にエルピスが残ったということは、人は絶望の淵においても希望を見失わずに生きることができる」
というのが、一般的なエルピスへの解釈である。
一方で、「悪神の詰まった箱に入っていたのだから、エルピスもまた悪神に違いない」という見解も存在する。
しかし「希望」とは、どれほど困難な状況にあっても、未来に対する可能性を信じる心そのものである。それがある限り、人はどんな状況でも前を向いて進むことができるのだ。
どんなに苦しい時でも、エルピスはその希望の光を絶やさないよう、箱の底から人々を静かに見守り続けている。
参考 : 『ギリシア・ローマ神話辞典』
文 / 草の実堂編集部
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