「参政党に投票する人は馬鹿である」とは、偏見である。「外国人は法を守らない」と同レベルの。
2025年の参議院選挙は、自民党などの既存政党が惨敗し、参政党や国民民主党といった新興政党の躍進が目立った。
この選挙結果については色んな議論の建て方があると思う。たとえば新興政党が比較的若い世代の支持を集め、自民党や立憲民主党などが高齢者の支持に頼っている点などは、今後もっと多くの人が注目し、議論することになるだろう。
そうした切り口に比べたら、これから述べる「参政党に投票した人を馬鹿にする人々」というのはスモールイシューだ。
どの政党にも、自分の支持政党に正義の御旗をみて、他政党を悪魔化する輩はいるものである。だから参政党に投票した人、あるいは他の新興政党に投票した人を馬鹿にする人が出てくるのは不思議ではない。
ところが、普段から「私は偏見や差別をなくすために頑張っています」といったていをなしているはずの紳士淑女が、今回の選挙で参政党に投票した人をひどく馬鹿にし、隠すそぶりもない景色を案外見かけるのである。
参政党のマニフェストはろくなものじゃなかった
私自身はというと、参政党に投票する気にはなれなかった。彼らが選挙活動をとおして有権者に訴えたことは、国民の平等や社会福祉の精神を逸脱しているだけでなく、外交的にも経済的にも無謀に思えたからだ。
私は参政党に投票はしないと早々に決めて、期日前投票に出かけた。私はそれで良かったと思っている。
その後も、参政党からはファシスト政党めいた発言があったりして、どうにも受け付けなかった。
たくさんの「賢い」人たちが参政党を批判・非難しているのを目にしたが、批判や非難をとおしてますます知名度を稼いでいるようにしか見えなかったので、選挙が終わるまで言及してはいけない勢力であると私は判断した。
世の中には、賛辞だけでなく批判や罵倒をも食ってしまう勢力が存在する。今回の選挙において、参政党はそのような勢力として機能している様子だった。
参政党に投票した人を馬鹿にしていいの?
問題はここからだ。
確かに参政党の主張はめちゃくちゃで、その約束が果たされる見込みも低いようにみえる。そもそも、約束が果たされたら民主国家がひっくり返ってしまうだろう。それらが「賢い」人たちから見て批判や非難に値するのは私にもわかる。
しかし、参政党に投票した人まで馬鹿にする向きは理解できない。
参政党に投票する人を、馬鹿だと決めつける人がいる。
参政党に投票した人を、何も考えていないと決めつける人がいる。
そのほか、ありとあらゆる口汚い言葉が参政党に投票する人に投げつけられていた。
参政党に投票した人のなかには、色々な人が混じっているだろう。もちろん、正真正銘の差別主義者やファシスト主義者も混じっているかもしれない。
しかし、そういう極端な主義者は全体のごく少数のはずである。
「賢い」言い回しを拝借すれば、「大衆には差別主義やファシズムが眠っているものだ」なんて言い方もできるかもしれないが、差別主義者やファシズムと認定する判定をそこまで広げて憚らない人は、かえって危なっかしい人であるように思われる。
そうではなく、参政党に投票する人のなかには、日本社会の閉塞感をなんとかしてくれる可能性を期待した人も多かったのではないか。
個々のマニフェストは問題だらけにせよ、既存政党にはできないことができるかもしれない政党としてあえて選んだ人もいたはずである。それを、馬鹿だの阿呆だの愚かだのといった言葉で片づけてしまって構わないとは思えない。
参政党の演説のなかで、立候補者が「既存政党はしがらみに縛られていて、選挙公約を果たすことができない」ことを強調していたのを思い出す。
いや、だからといってあなたがたの選挙公約がそっくり果たされても困るんですけど。
さておき、その立候補者の言っていたこともある程度はわかる。既存政党が経済セクターや医療セクターや報道セクターなどと昵懇である以上、大鉈を振るうような改革などできはしない。そうした改革ができないまま衰え続けてきたのが日本社会の数十年だったと思っている人には、参政党は新しい選択肢とうつっただろう。
これが東日本大震災の前なら、民主党や共産党や社民党などがそうした改革を望む人々や、日本社会の惰性にNoを突きつけたい人々の受け皿たり得たかもしれない。
当時はSNSやショート動画がまだ普及しきっていなかったし、SNSを政治活動に生かすメソッドも、SNSに根ざしたかたちで構築される知の地平も存在していなかった。
少しごちゃごちゃしたことを書き加えておきたい:
ここで私がいうSNSに根差して構築される知の地平とは、活版印刷に根差して構築される知の地平とは異なった知の地平だと思ってもらいたい。
20世紀に生まれ育ち、大学など出ている人の知のありようは書籍や新聞といった静的かつ詳細なテキストに(究極的には)根ざしている。
ところがSNSやショート動画が普及して以降の知のありようは、たぶんそうじゃない。動的で疎な情報量からなる、かつてポスト構造主義者が述べていたシミュラークルとシミュレーションのそれになるだろう。というか、SNSにはシミュラークルとシミュレーションしかない。
参政党の選挙活動やマニフェストは、活版印刷に根差した知の地平で眺めれば支離滅裂かもしれないが、SNSやショート動画に根差した知の地平でみれば、案外、問題にはならないかもしれない。
参政党は、バラエティに富んだマニフェストをばらまくだけばらまいて、有権者にそのなかから自分好みのストーリーを持ち帰らせているようにも見えた。それは、SNSやショート動画がますます台頭し、新聞や書籍を読む人が減っていく時代に適したやりかただったのではないか?
失礼、ごちゃごちゃした話を書きすぎてしまったかもしれない。
それよりも、参政党に投票した人にかけるべき言葉についてだ。
「賢い」人々が参政党に投票した人にかけるべき言葉は、「馬鹿」「愚か」「何も考えていない」ではないと思う。
憐れむような言葉も撤回すべきだ。参政党に投票した人に「かわいそう」的なことをいう高学歴者をたくさん見た。違うだろう。そういう鼻もちならない態度は見透かされる。
どうして上から目線になってしまうのか。どうして同じ有権者として敬意を払わないのか。
同じ国民、同じ有権者、選挙が終われば力をあわせて社会をやっていかなければならない者同士なのに、どうしてそんなに簡単に人のことを馬鹿にしてしまえるのか。
ましてや、そうした人々が日頃さえずっている言葉が、平等だの、SDGsだの、権利擁護だのにもかかわらず、参政党に投票している人は平然と罵っているとしたら、それはいったい何なのか。それを見ている第三者がどれぐらい白けてしまうか、考えてみたことがないのか。
それは偏見だよ
「参政党に投票する人は馬鹿である」とは、偏見であると私は思う。
それは「外国人は法を守らない」と同レベルの偏見ではないだろうか。
この偏見を「賢い」人々が平然とばらまき、反省するそぶりもみせないとしたら嘆かわしいことである。
なかには反省している人もいるかもしれないが、反省している人を観測するのは反省していない人を観測するよりは難しい。
もう一度確認させていただく:私は、参政党とその選挙公約は良くないと思っている。今回の選挙における私の参政党評はそのようなものだ。
だからといって、参政党の支持者がみんな馬鹿だとか、参政党の選挙活動に参加していた人がみんな馬鹿だとかは、言っちゃいけないことだと思う。そりゃあ馬鹿な支持者だっているだろう。でもそれは自民党だって立憲民主党だって共産党だって同じだ。たくさん人が集まっていれば、そこには色々な人間が含まれている。
なにより参政党を支持した人も、それぞれ考えがあったうえで投票所にわざわざ出向いていることを、当たり前のこととして思い出さなければならないし、ひとつの投票の背景には有権者それぞれの事情、それぞれのコンテキストがあることも思い出さなければならない。
国政選挙は、そうした無数の事情やコンテキストや思料や感情が雨粒のように集まり、議員や政党といった大きなまとまりを形成するイベントだ。色々な人がいて、色々な背景がある。
それを馬鹿だの愚かだのといった言葉で切断操作するのは、乱暴だ。少なくともエレガントじゃない。
「賢い」人たちが本当に「賢い」なら、参政党に投票した人を罵倒するのでなく、次の選挙では同じ政党に投票してくれるかもしれない有権者として言及すべきだと思う。
罵倒は、ただ分断を広めるだけでしかない。それこそ分断をとおして利益を得る勢力の思うつぼだとも思う。
だから参政党に投票した人を馬鹿にする人々には、こう言いたい:そんなに簡単に人を見下しちゃダメだよ。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
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