中川慰霊塔 倒壊防止のために解体 平和の鐘、芳名板保存へ
大棚町の清林寺の墓地北側に建立されていた中川慰霊塔がこのほど解体、撤去された。高さ12mにも及ぶ塔は、建立当時の資料がなく、耐震面などの影響を考え、数年前から解体が検討されていた。
慰霊塔は、中川地区(現在の南山田、北山田、東山田、勝田、牛久保、大棚、中川、茅ケ崎)出身で、明治、大正、昭和の戦死・戦病死者の冥福を祈願し、半世紀以上前の1967年9月に建立された。アルファベットのHのように2本の塔が、裾を拡げる形で上方に伸び、2つの塔を繋ぐ場所に「平和の鐘」と刻まれた鐘がつるされていた。高さは約12mで、塔の土台の前には、中川地区戦没者167人の名が刻まれた芳名板が据え付けられていた。毎年8月13日には中川地区遺族会による慰霊祭が開かれ、平和の鐘を鳴らしていた。
監理責任の所在不明
慰霊塔は、当時の港北区中川連合町内会と遺族会が中心となって建設委員会を発足し、建立したとされている。しかし、建立に関する引継ぎ資料などはなく、当時を知る人も多くが他界。当時の中川連合町内会も現在は4つの地区連合町内会(中川、勝田茅ケ崎、東山田、山田)に分かれていることから、長年管理者が不明な状態のままになっていた。
都筑区連合町内会自治会の会長で勝田茅ケ崎連合町内会会長の吉野富雄さんによると、「なぜ清林寺に建立されたかも含めて、詳細のわかる人がいない。責任の所在が不明のままでは、今後も適切な管理がなされない恐れがある」と数年前から解体・撤去について地元の関係者や遺族会、清林寺と協議をしていた。実際、塔のすぐ裏には民家が立ち並び、通りを隔てた東側には中川中学校の校舎が建つ。通りは生徒たちの通学路にもなっており、「大規模地震で塔が倒壊すれば、大きな被害になる危険があった」(吉野さん)。コロナ禍を経て昨年末、解体に関して横浜市からの補助が確定したことから、勝田茅ケ崎連合町内会が遺族会などを代表し、工藤建設株式会社(本社・青葉区)と契約を結び、解体工事に踏み切った。
解体工事を行った工藤建設によると、塔の内部は、「鉄筋は入っているが、横揺れに襲われると心配」な状態だったという。また現場は道が狭く、大きな工事用車両が入れないため、同社では塔の周りに足場を組み、職人が上から手作業で壊していった。塔のシンボルでもあった青銅製の「平和の鐘」は、壊さず、滑車を使って地上に降ろしていった。鐘は裾の直径が約1mで、「平和の鐘」の文字と戦争犠牲者を弔い、不戦を誓う銘文が刻まれていた=右。
解体は、基礎まで撤去し、墓地内の土留め、フェンス工事などを経て3月末に修了した。
生まれる前から塔が建っていたという清林寺の渡邉清光住職は「塔が無くなるのは寂しいが、いつ大地震が起きてもおかしくない中、被害が出る前に解体という決断は致し方なかったと思う」と話した。吉野さんも「倒壊で被害を出す前に解体でき、ホッとしている」と胸をなでおろした。
塔に据え付けられていた「平和の鐘」と芳名板は、一時的に吉野さんが保管。今後、清林寺境内にある日露戦争記念碑のそばに設置できないか、相談していくという。