#5 隠れ家への移動――小川洋子さんが読む『アンネの日記』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
作家・小川洋子さんによる『アンネの日記』読み解き #5
苦難の日々を支えたのは、自らが紡いだ「言葉」だった――。
第二次世界大戦下の一九四二年、十三歳の誕生日に父親から贈られた日記帳に、思春期の揺れる心情と「隠れ家」での困窮生活の実情を彩り豊かに綴った、アンネ・フランクによる『アンネの日記』。
『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記』では、『アンネの日記』に記された「文学」と呼ぶにふさわしい表現と言葉と、それらがコロナ禍に見舞われ、戦争を目の当たりにした私たちに与えてくれる静かな勇気と確かな希望について、小川洋子さんが解説します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第5回/全6回)
隠れ家への移動
一九四二年七月六日、いよいよ一家は隠れ家へ移動します。アンネはそのときの様子を、ユーモアをもって記しています。
家族一同、まるで北極探検にでも出かけるみたいに、どっさり服を着こみましたが、これもできるだけたくさん衣類を持ってゆくための苦肉の策です。(中略)おかげで、家を出ないうちに窒息しそうになりましたけど、さいわいそのことを詮索しようとするひとはいませんでした。
(一九四二年七月八日)
まず、マルゴーがアンネより一足先に、ダヴィデの星を外し、自転車に乗って、ミープ・ヒースとともに家を出ました。ユダヤ人は、星を外すことも自転車に乗ることも禁じられていましたから、ミープがいかに自ら捕まる危険をおして、この重大な役目を負ったかがわかります。
そして残る三人は、雨の降りしきるなか市電に乗ることも叶わず、隠れ家であるオットーの会社まで歩いて行きました。ユダヤ人が大きなスーツケースを持って家を出ると怪しまれた時代です。四キロの道のりは危険と隣り合わせだったと思いますが、驚くべきことに、アンネの洞察力は別の方に向けられています。
通りかかる出勤の人びとは、気の毒そうな目でわたしたちを見ています。その表情を見れば、乗せてってあげようと言えないために、とてもつらい思いをしているのがわかります。いやでも目につくどぎつい黄色の星、それがおのずから事情を物語っているのです。
(一九四二年七月九日)
アンネは、オランダ人たちがけっして疑いの目を向けるのではなく、乗せていってあげたいけれどそれができない苦しい目をしているということを感じ取っているのです。自分の人生にとって一大事が起きている最中にも、自分以外の世界を観察している。悲観的な面にとらわれるのではなく、状況を冷静に把握して、悲惨のなかにあるユーモアをも見つけることができる──。これは間違いなく、文学の書き手としての大切な資質です。
あまり注目されていませんが、『アンネの日記』につねにユーモアが内包されている事実は、重要なポイントです。ここには、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかという、いわゆる愚痴や恨みつらみがありません。ヒステリーも、グズグズした泣き言もない。のちの章で触れますが、大人たちに向かう批判の仕方は、愚痴とはまた違うものです。
おそらく現実のアンネは、もうすこし子どもっぽい部分を持っていたでしょう。でも、日記と向かい合ったとき、彼女は大人になったのです。「言葉を探す」という作業が、彼女を年齢以上に成長させたのだと思います。
隠れ家に入ってからの様子を描写するときも、アンネはユーモアを忘れません。隠れ家の構造や、会社と部屋との接合部の仕組みなどは、口で説明するのも難しい複雑さです。しかしそれをアンネは、的確にやってのけます。「ではいよいよ建物について説明しましょう」と、まるで、新しい家を自慢でもするかのように──。少し引用してみましょう。
踊り場の右手のドアが、わたしたちの《隠れ家》に通じる入り口です。灰色に塗られたその質素なドアの向こうに、こんなにたくさんの部屋が隠れているとは、だれにも想像できないでしょう。ドアの前に、小さな上がり段がひとつあり、それをあがると、もう《隠れ家》のなかです。はいるとすぐ入り口の向かい側に、急な階段があります。階段の左手の短い通路を進むと、フランク一家の居間兼寝室、その隣のやや小さな部屋が、フランク家のふたりのお嬢さんがたの勉強部屋兼寝室です。階段にむかって右手には、洗面台と小さなトイレのある、窓のない小部屋があり、ここからもべつのドアがわたしたち姉妹の部屋につづいています。
(同前)
隠れ家の実際の構造については、図をごらんください。
わたしは、いまは博物館「アンネ・フランク・ハウス」になっているこの隠れ家を、二度訪ねたことがあります。一九九四年に最初に訪問した際は、まだ当時の建物の気配が残っていましたが、二〇一二年に再訪したときにはかなり老朽化が進み、コンクリートで外壁を補強するなど、見た目もずいぶん様変わりしたように感じました。
隠れ家を見た第一印象は、「意外に広いな」というものでした。もっと狭苦しいイメージでしたが、思いのほか、広々としていました。でもそれは、家具がないことも理由のひとつだったと思います。一家の家具は、連行後に、金目のものを没収するナチスによってすべて収奪されたのです。アンネ・フランク・ハウスではドールハウスのような模型が用意され、オットーの証言をもとに、当時の部屋の様子が再現されています。しかしいま残された空間は、空洞です。その空洞は、ここで濃密な時間を過ごしたはずの人たちの命が、理不尽にも奪われ、二度と戻ってこられない事実を証明しているかのようでした。
ちなみに日記の一部は、アンネ・フランク・ハウスに展示されています。赤い格子柄の布張りの、アンネの可愛らしさによく似合う日記帳です。
著者
小川洋子(おがわ・ようこ)
作家。1962年、岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。91年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞。2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、06年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、13年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、20年『小箱』で野間文芸賞、21年菊池寛賞を受賞、同年紫綬褒章を受章。その他、小説作品多数。エッセイに『アンネ・フランクの記憶』、『遠慮深いうたた寝』などがある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記 言葉はどのようにして人を救うのか』(小川洋子著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
*本書における『アンネの日記』の引用は、アンネ・フランク著、深町眞理子訳『アンネの日記増補新訂版』(文春文庫)を底本にしています。また、小川洋子著『アンネ・フランクの記憶』(角川文庫)を参考にしました。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年8月および2015年3月に放送された「アンネの日記」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「言葉はどのようにして人間を救うのか」、読書案内などを収載したものです。