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底知れぬ闇と向き合う──沼野充義さんが読む、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』【NHK100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

底知れぬ闇と向き合う──沼野充義さんが読む、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』【NHK100分de名著】

謎が謎を呼ぶ、「閉じない小説」の真価──村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』を、沼野充義さんが解説

2025年4月のNHK『100分de名著』では、村上春樹を「世界文学」へのステージへと押し上げた傑作『ねじまき鳥クロニクル』を、ロシア・東欧文学研究者、文芸評論家の沼野充義さんが紹介します。

飼い猫の失踪をきっかけに、どこにでもある日常を生きる「僕」の毎日が一変する――。
空き家の涸れ井戸を介して、現実と異界、平凡な日常と恐ろしい悪、東京の世田谷と戦時中の日本がつながっていく『ねじまき鳥クロニクル』の物語。主人公の「僕」は何度も井戸に潜り、人間の意識の奥深く、歴史の奥底にある闇を見極めようとします。

番組テキストでは、特異かつ難解なことで知られる村上文学を沼野充義さんの解説で解きほぐし、「閉じない小説」といわれる『ねじまき鳥クロニクル』の深層へと迫ります。

今回はテキストから、そのイントロダクションを公開します。

世界文学のなかの村上春樹

 村上春樹はおそらくいま世界で最も人気の高い作家のひとりでしょう。彼の作品については、日本文学の評論家から海外の文学研究者まで、じつに様々な論客たちが批評・分析しており、その中には専門の「村上研究者」として、村上春樹について深く研究し、詳しく論じている人も少なくありません。そういった人たちを差し置いて私が村上作品を論じるのもちょっとおこがましいことではあるのですが、自分としてはどういう立場からあえて村上作品に向き合うのか、最初にご説明したいと思います。

 私はもともとロシア・東欧文学が専門ですが、現代日本文学の評論にも携わりながら、この二、三十年のあいだ、「世界文学」というものについて考えてきました。特に世界の中での日本文学の位置づけに関心を払ってきました。ですので、まずは「世界文学のなかの村上春樹」という視点から話を始めてみたいと思います。

 世界文学とは何か。言葉の歴史を少しだけ振り返ってみますと、十九世紀の初め、ドイツの作家ゲーテが世界文学(Weltliteratur)という言葉を文芸史上で初めて使ったとされています。この言葉自体はゲーテの少し前に用例があるのですが、いずれにせよこの概念の重要性を広く認識させ、言葉を定着させたのはゲーテでした。これは単に「世界」と「文学」という二つの言葉をくっつけただけではありません。ゲーテの趣旨は、人類にはすでに共有すべき世界の様々な文化的財産がある、だから文学も普遍的な価値を持つ世界文学を目指すべきだ、というものでした。しかしこれはユートピア的な話で、文学でも言語でも、もちろん政治のレベルでも、世界が一つになるというのは現実離れした理想論だというのは、二十一世紀の我々を取り巻く現実を見渡せば歴然としています。

 ゲーテの理想論は現実離れしていて現代世界にはそのまま適用できないと思いますが、それに対して、いま「世界文学論」を提唱している人たちは、もう少し現実的でいわば柔軟な考え方をしています。たとえば、アメリカの比較文学者デイヴィッド・ダムロッシュは、『世界文学とは何か?』(二〇〇三年、邦訳は二〇一一年)という本の中で、現代の世界文学とはすでに評価が定まった古典的傑作の正典目録ではなく、「読みのモード」(a mode of reading)であると言っています。読みのモードとは、要するに「読み方」です。世界文学とは「あなたがそれをどう読むか」なのです。たとえば、日本人が書いた小説を日本人がどう読むかだけでなく、それが翻訳されて、日本語以外を母語とする人たちがどう読むか。その読まれ方の世界的なネットワークが形作っていくものが世界文学だということです。

 ご存じのとおり、村上春樹の作品はすでに五十か国語ほどに翻訳されていて、世界中で読まれています。もはや日本だけの財産ではない。様々な国で多様な読まれ方をしていて、その読まれ方の総体として、村上文学は世界文学になっている。そう言えるのではないかと思います。

 では、世界の国々で村上春樹はどう読まれているのか。私は今回、アメリカ、ロシア、ポーランド、中国の翻訳者や日本文学研究者にインタビューを行い、それぞれの国における村上作品の受容について話を聞きました。その内容は、40ページと92ページのコラムで紹介していますので、本編と併せてぜひご覧ください。

 私の個人的な村上体験を少しだけお話しします。村上春樹は一九四九年生まれで、私より五歳上です。一九七九年に村上がデビューした当時、同時代の日本文学の代表者は、何と言っても安部公房(一九二四〜九三)と大江健三郎(一九三五〜二〇二三)でした(人によってはそこに三島由紀夫も加えるでしょう)。安部公房は、日本文学を狭い文壇的な考えから解き放ち、世界文学的な水準で現代人を取り巻く不条理を扱った小説を書いていましたし、大江健三郎も、のちにノーベル文学賞を受賞した際に「今日のヒューマン・プリディカメント(人間の苦境)を描いた」と評価されたことからもわかるように、「東洋的な物語」ではなく、「現代人にとって普遍的な問題」を描く作家として読まれていました。

 村上春樹は、短めの長編『風の歌を聴け』(一九七九年)で、『群像』という雑誌の新人賞を受賞してデビューしました。私はこの作品が発表されてすぐに読み、これは自分が知っているそれまでの日本文学の作家とは世界に対するスタンスが完全に違った新しいものだ、と思いました。そして、これは大変おこがましい話なのですが、「あ、やられた」と感じたのです。私にも小説を書いてみたいと考えていた時期があり、「これは自分が書きたかった小説だ」と思ったのです。もちろん、このあとご説明しますように、彼の作品はじつに複雑かつ緻密に作られていて、簡単に模倣できるようなものではないのですが。
 
 以来、私は同時代の作家として村上春樹を読んできました。デビュー作はいささか抒情的な小品でしたが、彼はそこから次第に大きな物語を書くようになりました。一冊には収まりきらず、二巻や三巻にもおよぶ長い小説も少なくありません。一九七九年のデビュー以降、ほぼコンスタントに小説を発表し続け、そのたびに話題を集めているのは驚くべきことです。

 今回は、『ねじまき鳥クロニクル』(一九九四、九五年)を取り上げます。これは、初期村上から中期村上への転機となった長編であると私は考えています。それまでの村上作品は、多くの場合、作者自身を連想させる三十歳前後の独身男性や子どものいない若いカップルが、都会でファッショナブルな生活をしている都市小説で、現代日本の風俗の表層をすべっていくようなところがありました。それに対し『ねじまき鳥クロニクル』は、初めて本格的に、現代日本の表層が、じつは底知れない闇をその下に抱えていて、それが歴史の奥底──たとえば満州や外モンゴルでの戦争、あるいはそこに秘められた巨大な悪や暴力──につながっていることを示した小説です。村上自身の言葉で言うところの「デタッチメントからコミットメントへ」という変化が、この作品ではっきりと示されています。

 一方で、そのような村上春樹の変化を知らなくても、物語そのものに強烈なドライブ感のある本作は十分に楽しむことができる作品です。途中、日中戦争の時代の外モンゴルや満州を舞台にした非常に残酷な描写も出てきます。楽しく読める軽やかな冒険の物語で終わってもよさそうな作品の中に、なぜこのように残酷で恐ろしい題材を盛り込まなければならなかったのか。その理由も考えながら、この長い年代記(クロニクル)を一緒に読んでいきましょう。

「100分de名著」テキストでは、「日常のすぐ隣にある闇」「大切な存在の喪失」「根源的な「悪」と対峙する」「「閉じない小説」の謎」という全4回のテーマで本書を読み解き、さらにもう一冊の名著として村上春樹『象の消滅 短篇選集1980-1991』を紹介しています。

講師

沼野充義(ぬまの・みつよし)
ロシア・東欧文学研究者、文芸評論家
1954年、東京都生まれ。東京大学名誉教授。東京大学教養学部卒業後、ハーバード大学大学院および東京大学大学院に学び、ワルシャワ大学講師や東京大学教授、名古屋外国語大学教授などを務める。訳書にレム『ソラリス』(ハヤカワ文庫)、ナボコフ『賜物』(河出書房新社)、『ハーバード大学ダムロッシュ教授の世界文学講義』(監訳、東京大学出版会)など、著書に『徹夜の塊 亡命文学論』(作品社、サントリー学芸賞)、『徹夜の塊 ユートピア文学論』(作品社、読売文学賞)、『徹夜の塊 世界文学論』(作品社)、『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』(講談社)、『ロシア文学を学びにアメリカへ?』(中公文庫)など。共編著に『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫)がある。2013年4月〜2014年3月にはNHKラジオ「英語で読む村上春樹」で講師を務めた。
※刊行時の情報です

◆「NHK100分de名著 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』2025年4月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における『ねじまき鳥クロニクル』の引用は新潮文庫版に拠ります。

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