私たちに「家族の絆」はないのか?別姓の両親の“選択”へ記者が向き合った答え
夫婦が結婚後も、それぞれの名字を名乗り続けることができる【選択的夫婦別姓】。最新の世論調査では、過去最多の61パーセントが賛成しています。
札幌でも実現を求める訴えが起きていますが、根強い反対の声から実現には至っていません。
名字で“家族の絆”は変わるのか、別姓の両親を持つHBC三栗谷皓我記者が取材しました。
連載「じぶんごとニュース」
「夫婦別姓」の父母の元に生まれて
庭のデイジーの花を横目に、私は25年間、抱き続けてきた疑問を両親に尋ねました。
「一瞬自分の名字が変わったわけじゃない?『三栗谷』の方に。その時の感覚って?違和感はあった?」
その問いに応えるのは母、「山本明佳」です。
「すごくあります。20代の一番後半に結婚したので、その20何年っていう割と記憶も鮮烈な年代だったので」
テレビ局で記者になって4年目になる私。私の両親は夫婦で名字が違うのです。
父は「三栗谷」、母は「山本」。
周囲と違うことに気づいたのは、小学3年のころ…学校の教室で配られたPTAの会報を読んだときでした。
友人たちの両親は皆、母親の名字が省略されて表記されているのに、私の両親だけ「三栗谷信明・山本明佳」とフルネームで表記されているのを見て疑問に思ったのです。## 通称使用じゃぬぐえない不便や不都合
結婚後も、夫婦が、それぞれの名字を名乗り続けることができる選択的夫婦別姓。
企業の女性の役員が増えたり、海外で活躍する女性が増えたりしたことで、早期実現を求める動きが加速しています。
経団連の十倉雅和会長は6月、「女性の活躍を阻害する」として選択的夫婦別姓の早期実現を政府に提言しました。
今は、旧姓を通称として使用する、いわゆる「通称使用」を認める会社も増えています。
しかし、パスポートに記載された名字と違うために海外でホテルのチェックイン時にトラブルになったり…。
会社の登記簿などの公的な書類で使用できなかったり…。
経済界でも、不便、不都合、不利益の声があがっているのです。
経団連の十倉会長は選択的夫婦別姓は「ダイバーシティ政策の一丁目一番地だ」として、一刻も早い国会での議論を求めています。
「私が今まで生きてきた名前」別姓を選んだ両親
選択的夫婦別姓を求める人たちは私たちの身近なところにいます。
東京の同じ職場で出会い、1992年に結婚した両親。
それから、30年以上夫婦別姓の道を歩んできました。
母は、結婚前から「ヤマモトサヤカという自分の名前を失いたくない」という思いが
あったといいます。
「私が今まで生まれてきて、生きてきて、生活をしてきた、その名前にこだわっている」
結婚するために「無理を聞いてもらった」
両親が結婚した年は、余市町出身の毛利衛さんが、スペースシャトルで宇宙に行き、バブル景気の崩壊で、不況が深刻化した時代です。
夫は外で24時間バリバリ働き、妻は家庭を守る。
結婚すれば、女性が名字を変えて家庭に入る。それが当たり前でした。
結婚前、2人で名字について話し合った両親。
事実婚も2人の選択肢の一つでした。
しかし、父方の祖父の承諾は得られず。
両親は法律婚を選び、母は三栗谷の姓を名乗ることになったのです。
父は、母の考え方は理解していましたが、結婚を認めてもらうために「無理を聞いてもらった」と当時を振り返ります。
母は30年近く人生をともに歩んできた「山本」という名字を変えた瞬間に「私が誰だかわからなくなってしまう感じがした」といいます。
違和感をぬぐえなかった母はある手段に出ます。
名字が違うことは、私には当たり前だった
「三栗谷」という名前を残したかった父。「山本」という名前を取り戻したかった母。
話し合いの末、結婚後3年で、法律上は離婚。
事実婚の夫婦として生きていくことを決めたのです。
両親は私と弟を出産するタイミングで婚姻届を出し、出産を終えたら離婚届を出す。
いわゆる「ペーパー離婚」を2度繰り返しました。
私自身は、両親の名字が違うことは当たり前だと思ってこれまで生きて来ました。
そのせいで周囲からからかわれたことも、両親からの愛情に疑問を感じたこともありません。
「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と定める現在の民法。
そもそも、日本で夫婦が同じ名字を名乗るようになったのはいつからなのでしょうか。
実は、長い歴史ではない
長年、夫婦の氏について研究する立命館大学の二宮周平名誉教授に話を聞くと、夫婦で同じ「氏」を名乗ることが明確になったのは1947年の民法改正。
そもそも、1876年に日本で初めて夫婦の姓が規定された時には「夫婦別氏」でした。
夫と妻それぞれが「生まれた家の氏を名乗ること」と定められていたのです。
ところが、22年後(1898年)に成立した民法で「家制度」が導入されると、「家」を単位として1つの戸籍をつくり、夫婦はともに「家」の氏を名乗る「夫婦同氏」となりました。
戦後の1947年の民法改正でも「夫婦同氏」は引き継がれ、今日まで続いていますが、日本における「夫婦同氏」の歴史は実はそこまで長くないことがわかります。
さらに、この1947年の民法改正当時から、夫婦別姓を認めるべきという声が上がっていたと二宮名誉教授は話します。
当初から指摘された「多くの場合女性ばかりに負わされる」負担
「1955年に『夫婦異性を認めるべき』という留保事項が公表された。結婚した後も夫と妻が別々の氏を名乗るということについて、検討を続けようということになっていた」
二宮名誉教授によれば、当時から民法学者の加藤一郎を筆頭に、「氏が変わると社会活動している者にとっては不便苦痛をもたらす」と指摘する学者たちがいました。
特に加藤一郎は「多くの場合、名字を変える負担は女性だけに負わされている」と指摘し、
半世紀以上前から「夫婦同氏」による男女間の不平等に気付いていたのです。
市民の間でも当時から夫婦別姓を求める声はありました。
男女雇用機会均等法が成立したり、国連の女性差別撤廃条約に批准したりした1980年代には、全国的に夫婦別姓を求める市民運動が高まり、1996年には、法務省の法制審議会で「選択的夫婦別姓」を認める民法の改正案が答申されました。
しかし、国会には提出されず、今日まで国会での議論は行われていません。
背景にあるのは根強い反対…「日本の伝統」についての声です。
変わらぬ答弁 議論すらされない現状
立命館大学・二宮周平名誉教授は夫婦別姓の大きな反対意見を指摘します。
「夫婦が同じ氏を名乗る、親子が同じ氏を名乗る。それで家族は一体なんだという、そういう伝統が壊れるといって猛烈な反対運動を起こす」
自民党内にもこうした根強い反対派の議員が一定数いるため、改正案は閣議決定されず。
法制審議会で答申されたにもかかわらず、一度も国会で議論されていないのです。
法務委員会などで野党議員が質問を繰り返しても、「家族の在り方に関わる重要な問題なので、国民の考えや裁判の動きを注視しながら検討する」という通り一遍の答弁が繰り返されています。
私は「かわいそうな子ども」なのか
3月、札幌から北海道で初めて選択的夫婦別姓の実現を求める訴えを30代の夫婦が起こしました。
私は司法担当の記者として原告を取材してきました。
その中で、「家族の絆が壊れる」や「子どもがかわいそう」といった反対意見があることを知りました。
私の父と母は名字が違うだけ。
だけど、私は「かわいそうな子ども」なのか、私たち家族に「絆はない」のか。
強く疑問に感じたことが、今回両親に取材をするきっかけになりました。
両親にも「選択的夫婦別姓がいつか実現するのではと思ったことはあったか」と聞いてみました。
母の答えは「ずっとあった」。
「今更って感じもあるけど、本当に実現してほしい。なぜ実現しないのか意味が分からない」
30年以上実現を信じてきた母。
しかし、一向に国会で議論すらされない選択的夫婦別姓。
取材の最後に両親に尋ねました。
私たちは、家族であり続けた
「名字で家族の絆は決まりますか?」
父の答えはこうでした。
「こういう家族を作ってこられたので、名字が何か関係ありますかっていうと関係ないと思う。籍が入ってるから良い家族ができるとか、入っていないから悪いとか、そんな感覚は持ったことがない」
そして母は。
「私が産んだ子なのでね。別に名字が違ったからといってそれが生涯切れるわけではない。名字とか関係なく、着実にいろいろな経験をしながら家族であり続けていたなと思います」
そしてもう一言。
「選択的夫婦別姓制度が導入されたら、その制度の下で必ずまた父と結婚する」
今、家族の形は多様化しています。
お父さんしかいない家も、お母さんしかいない家も、おじいちゃんおばあちゃんが両親の代わりをしている家も、男性同士や女性同士で子育てをしている家だってあります。
どんな家族の形でも、それぞれがそれぞれのやり方で絆を深めることはできる。
選択的夫婦別姓をはじめ、様々な家族の形を選べる社会になることが、みんなが生きやすい社会になることなのではないでしょうか。
連載「じぶんごとニュース」
文:HBC報道部 三栗谷皓我
編集:Sitakke編集部あい
※掲載の内容は「今日ドキッ!」放送時(2024年6月26日)に基づき、情報を更新しています。