【倉敷市】第46回くらしき未来K塾/オモロジカル・シンキングのススメ(2024年9月28日開催)~ 越前屋俵太の人生から学ぶ、仕事をすべて手放して得たものとは何か
街を歩いていると、ローカルテレビの撮影に遭遇することがたまにあります。直接インタビューされることは稀(まれ)ですが、イベントやお祭りなどでは見慣れた風景です。
今のバラエティー番組などで見かける「街中の人々をインタビューして、面白おかしく演出する」という手法は、1980年代ごろにテレビで活躍した、越前屋俵太(えちぜんや ひょうた)さんが生み出したテクニックといわれています。
越前屋俵太さんは、「芸人が面白くする」という当時のテレビの概念をくつがえしました。
月に一度、語らい座 大原本邸で開催される「くらしき未来K塾」にて、2024年9月28日に越前屋俵太(えちぜんや ひょうた)さんによる講座がおこなわれたので、筆者も参加してきました。
第46回くらしき未来K塾のようすをレポートします。
くらしき未来K塾2024「オモロジカル・シンキングのススメ」とは
くらしき未来K塾は、学校教育と地域社会をつなぐために生まれたセミナーです。
企業経営者や教育関係者、そして地域や教育に関心のある一般市民の交流の場として、定期的に開催されています。
さまざまな講師が登壇しており、第45回・46回は、テレビでお茶の間をにぎわせた越前屋俵太(えちぜんや ひょうた)さんが登場しました。
越前屋俵太さんについて
越前屋俵太さんは、テレビ番組の企画・構成のほか、自らも演者として出演し、長寿番組「探偵!ナイトスクープ」では初代探偵を務めた人物です。
探偵!ナイトスクープが始まった1988年当時、番組を面白くするためには芸人が出演するのが主流でした。
しかし越前屋俵太さんは、一般人との交流から面白さを引き出すというテクニックを確立します。予算が無くとも、有名人を使わずとも、越前屋俵太さんは、道端で出会った人々との交流で笑いを生み出し、高い人気をほこりました。
芸人を使わずに一般人から笑いを生み出すというテクニックは、その後さまざまな番組で活用されており、今のテレビ業界に浸透しています。
現在の越前屋俵太さんは、客員教授や非常勤講師として、これまでの経験を生かした「現場での考え方や手法」などを全国の大学で教えています。現職は以下のとおりです。
・関西大学 社会学部 客員教授
・北陸先端科学技術大学院大学 客員教授
・高知大学 希望創発センター 客員教授
・京都芸術大学 客員教授
・京都外国語大学 客員教授(学長室付きアドバイザー)
・静岡県立大学 スタートアップ創出支援アドバイザー
・和歌山大学 観光学部 非常識講師
・京大変人講座 ディレクター&ナビゲーター
・俵 越山 未熟流家元
・自問自党 党首
・ACADEMIC VISION LLC 代表社員
京都大学でおこなわれた「京大変人講座」は、受講生が毎回300人を超える人気の講座となりました。
他にも、書家・俵越山(たわら えつざん)としての活動や、ドキュメンタリー映画の制作、和歌山市の温泉PRの企画ディレクターなど、その活躍は多岐にわたります。
独自に立ち上げたWebメディア「ヒョータイムズ」では、越前屋俵太さんの最新の活動をチェックできます。
テレビの人気者が山ごもりするまで
現在でこそ幅広く活躍している越前屋俵太さんですが、過去にすべての仕事を辞めて5年間も山にこもっていた時期があります。
なぜ安定していたテレビの仕事を手放し、新たなスタートを切ったのか。そして、山ごもりを経ていったい何を得たのか。
越前屋俵太さんの人生を振り返ります。
越前屋俵太さんが確立した「お笑いスタイル」とは
越前屋俵太さんが初めてテレビに出演したのは、制作会社でアルバイトをしていた大学2年生の時でした。
予算の限られた番組では、タレントや芸人を呼ぶことも、セットを作ることも難しく、そのなかで「どうすれば面白くなるか」を考えた末に思いついたのが「道端で歩いている人に絡む」という演出でした。
越前屋俵太さんは、もともとディレクター志望でしたが、その演出をおこなうために自らテレビに出演し、街中の人々と積極的に交流していきます。
講座では、当時放送された貴重な映像がプロジェクターに映し出され、会場内はどっと笑いに包まれました。
ヤンキー同士で腕相撲対決をさせたり、サラリーマンと一緒に縄跳びをしたりなど、一般人に対して無茶ぶりをする越前屋俵太さん。しかし、街の人々も案外ノリノリで応えていきます。そこにはプロではないからこそ引き出される笑いがありました。
「絡んじゃいけないのはヤクザだけ。だから警察官はいじりました」と、警察官にも絡んでいく映像も流れ、会場内でまた笑い声が上がります。
「今の時代にやったら怒られてしまいそうなこともあったけど、当時はただみんなで遊んでいただけなんです。僕が街中にいると、テレビに出られるからってみんな近寄ってきてくれました」と振り返ります。
「探偵!ナイトスクープ」で生まれた危機感
お茶の間の人気者となった越前屋俵太さんに、「探偵!ナイトスクープ」の出演依頼がやってきます。
企画を引き立てるためにも芸人には頼らず、試行錯誤しながら、初代探偵として番組を盛り上げていきました。しかし、視聴率が上がるにつれて、「番組の人気を落としたくない」という保守派が生まれてきます。
「好調な時ほど失敗してもカバーできるんだから挑戦するべき」という越前屋俵太さんの意志とは真逆に、番組はしだいに保守的になっていきました。
「このままいけたら楽なんだろうけど。それってちょっとあかんじゃないの」
背中を押された二つの出来事
安定を求める番組の姿勢や、自分が考えたネタのパクリなどに嫌気がさし、「はたして現状のままで良いのか」と悩み始めます。
1995年に起きた阪神淡路大震災で、その意識はさらに強くなりました。
「被災した神戸の人々が、ゼロからまた頑張り直す姿に背中を押されたんです。『もう一度、ゼロから始めるパワーがないと、自分はだめなんじゃないか』と思いました」
そしてさらに背中を押されたのは、フォークシンガーの岡林信康(おかばやし のぶやす)さんとの出会いです。
岡林さんは、歌手として人気絶頂を迎えた1970年始めに突然表舞台から消えた人物でした。
芸能界を離れた岡林さんへ仕事の悩みを相談し、越前屋俵太さんは「探偵!ナイトスクープ」を辞めるという選択をしました。
普通に仕事をしていても、退職や転職する時は勇気が必要だと思います。知名度のある越前屋俵太さんの決断には、当時どれほどの勇気が必要だったのでしょう。
山ごもりで自然が教えてくれたこと
大半のテレビの仕事を辞めた越前屋俵太さんでしたが、福井テレビで放送されていた俵太さんが越前屋若狭見廻り奉行として福井県内を歩く「俵太の達者でござる」という番組のみ、唯一続けていました。越前屋俵太さんが自ら企画・出演をし、最高視聴率は30%を記録した人気番組です。1994年の日本民間放送連盟賞では、テレビ娯楽部門最優秀賞を受賞しました。
しかし、その番組の構成や手法なども他番組で真似されてしまい、積み重なっていた不信感に限界がやってきます。
「どうせ辞めるなら、すべて辞めよう」と決意し、表舞台から姿を消して、2003年に山ごもりがスタートしました。
5年間の山ごもり生活で、越前屋俵太さんが自然から何を学んだのか、そのエピソードを一部紹介します。
落葉樹(らくようじゅ)が葉を落とす意味
山には、年中青々しい葉をつける常緑樹(じょうりょくじゅ)と、秋に葉が落ちる落葉樹(らくようじゅ)がありました。
越前屋俵太さんは落葉樹に対して「紅葉は美しいけど、死ぬ手前の色をしている」という印象を持っており、どちらかといえば常緑樹のほうが好みだったそうです。
しかし、雪が降る季節を迎えると、落葉樹が持つ良さに気がつきます。
常緑樹は雪が積もって枝が折れてしまうのに対し、落葉樹は葉っぱを落としている分、雪が積もらずにしっかりと生え続けて冬を乗り越えていたのです。
「落葉樹は誰かに葉を落とされているのではなく、自ら葉を落としている。そしてその葉っぱが根元に落ちると、長い時間を経てまた自分の養分となってまた巡ってくるんです」
越前屋俵太さんは、山に来た当時を最悪の時代だと思っていました。しかし、朝と夜、夏と冬が繰り返すように、世の中は常に循環することを自然が教えてくれたと振り返ります。
桜の苗の話
木を育てていた越前屋俵太さんは、桜の苗を2種類購入しました。
ひとつは、知人の紹介で専門店で購入したもの。幹は太く、背も高い立派な苗木です。
もうひとつは、ホームセンターで購入した苗木で、育った環境が悪かったのか、病気で枯れてしまいそうなものでした。
いざ育ててみると、最初は想像通り専門店の桜がきれいに咲きました。しかし、数年経つとホームセンターの桜が不格好ながらも咲き誇り、今では専門店の苗木よりも大きく育っているそうです。
ホームセンターの苗木は良くない環境で育ったからこそ、水を求めて必死に生きようとします。硬い地層に当たっても、隙間をぬって根を伸ばし、しぶとく生き延びる力がありました。
「恵まれた環境じゃなかったとしても、きちんと生きていこうとすれば、いつか花が咲くんです。だから教えている学生にはとにかく頑張れと背中を押しています」
ニューヨークでの書道パフォーマンス
自然に囲まれて少しずつ立ち直っていくなか、最後に大きな支えとなったのは仲間の存在でした。
プロジェクターに映し出されたのは、書家・俵屋越山の書道パフォーマンスの映像です。ニューヨークの街中で、さまざまな障害物にぶつかりながら大きな筆を動かす越前屋俵太さんの姿が映ります。
「ニューヨークにおいで」と声をかけてくれたアーティストの友人。そして「越前屋俵太さんがニューヨークで頑張る姿を放送しよう」と渡航費用を出したテレビ局のおかげで、あこがれていたニューヨークでの書道パフォーマンスが実現しました。
筆者はニューヨークの映像を見て、魂のこもったパフォーマンスに圧倒されました。自然や自分自身と対話し続けてきた数年間の想いを、書道にぶつけているのが伝わってきます。
表舞台への復活。5年間の山ごもりで得たものとは
越前屋俵太さんは5年間の山ごもりを経て、いよいよ表舞台へと復活する日を迎えます。同級生20名ほどが集まり、復活を記念するイベントが開催されました。
当時のイベントの映像には、大勢の人に見守られながら書道パフォーマンスを披露する越前屋俵太さんと、「ありがとう」の文字を書道する子ども達が映っていました。
越前屋俵太さんがすべてを手放して見つけたこと。
それは「自分の思ったとおりに生き抜くことが大切である」ということでした。
大人になるにつれて、「上手くやらなければ」という固定観念にとらわれ、損得を考えて動いてしまう場面が多くなります。しかし、勇気を出して型にはめない生き方をすることで、本当に大切なものが見えてくると語ります。
「大人にならなきゃいけないのに、なりきれない自分もいますよね。そういう自分も受け止めてあげないと、いつかしんどくなると思うんです。生きづらい世の中ですけど、何かを辞めたり、捨てたりすることで、見えてくることもあります。だからみなさんには頑張って生きてほしいです」
越前屋俵太さんの言葉に勇気づけられたのか、涙ぐむ参加者もいました。一度すべてを捨てた人だからこそ語れる、重みのあるメッセージだと感じます。
その後の質疑応答では、「仕事を辞めるか悩んでいるけど決心がつきました」や、「自分のやりたいことに挑戦してみたいと思います」という参加者のポジティブな感想が飛び交い、会場全体があたたかく前向きな雰囲気になっていました。
筆者も悩みに直面した時は、越前屋俵太さんのエピソードを思い出したいと思います。
おわりに
今回の講義でもっとも印象に残ったのは、「若かりし時にあった志が、いつの間にか安定という名の欲望にすり替わろうとしていた」という言葉です。
筆者も子どもの頃は、やってみたいことや叶えたい夢が数えきれないほどありました。しかし、大人になるにつれて現実を知り、知らぬ間に手放した夢も多いです。志をつらぬく難しさを実感しています。
越前屋俵太さんの話を聞くと、すべてを手放すことは、初心を取り戻すという意味もあるように感じました。決断には勇気がいると思いますが、自分自身を守るための選択肢のひとつとして、覚えておきたいと思います。
次回のくらしき未来K塾は、2024年12月7日(土)に大原家9代目当主・大原謙一郎(おおはら けんいちろう)さんが登壇します。高校生と大人の対話を交えたトークセッションが開催される予定です。
詳細は、語らい座大原本邸のホームページをチェックしてみてください。