忘れられない人の「SNSチェック」が止められない……そんなときに考えたいこと
片想いでも元恋人でも、把握しているSNSのアカウントを毎日見に行ってはその人の「情報」をチェックすることがやめられない。
「恋人ができた」のような事実が書かれてあると怖いと思うのに続けてしまうのは、どうしてなのでしょうか。
相手の情報をつかんで自分はどうしたいのか、を理解しない限り、後ろ向きな気持ちは消えません。
忘れられない相手の「SNSチェック」をやめたいとき、何を意識すればいいのかお伝えします。
本当に知りたいのは何なのか
好きな人の日々を知りたいからSNSのアカウントをチェックすること自体は、前向きな気持ちであってそれによって自分も元気を得るようなことはあると思います。
問題なのは「過去に悶着を起こしたり喧嘩があったりして正面から関わる勇気の持てない相手」の投稿の内容を把握しようとする姿勢で、縁が切れた相手なのにいつまでも情報を知りたがるのは、自分がポジティブになる関わり方でしょうか。
自分と深いつながりのあった人、後悔を残す終わりになった人ほど「今はどうしているのか」が気になってついチェックしてしまう、という人は多く見聞きします。
こういう人に「何を知りたいの?」と尋ねると「いや、別にたいしたことでは」「特に知りたいことはないけれど」と自分が向ける関心の浅さをアピールすることが多く、それなのに毎日見に行くという矛盾を抱えているのがわかります。
本当に関心が薄いのであれば、その人の情報を得たいと思うことはありません。
その自分に違和感や苦しみを覚えるから誰かに打ち明けるのだと想像しますが、前向きな気持ちで接するつもりはない、もっと言えば「二度と関わりたくない」と思っている相手の日常を確認するのは、かえって執着を深くする行為です。
本当にその自分をやめたいと思うときは、まず「自分が相手の何を知りたいのか」を考えるのが後ろ向きな関心から抜け出す一歩になります。
「あってほしくない事実」の確認がしたい人たち
たとえば別れた元恋人のアカウントを毎日チェックしては、何をしていたか、誰と過ごしたかを把握したがる。
「自分がいない日常」を相手はどうやり過ごしているのかを気にする人は、ほとんどの場合「新しい恋人の出現」を恐れていると感じます。
それは自分にとって悲しい現実で「あってほしくない事実」ですが、あえて知ることで「これで諦めることができる」と思えます。
未練を抱える自分を感じるけれど、復縁を求める気持ちを相手に伝える勇気はなく、身動きが取れないから「諦める理由」を相手に求めるのですね。
特に最後は喧嘩別れなど後味の悪い終わりだった人ほど、「こちらが好きでいても仕方ない」と思うけれどどこかでやり直せる可能性を捨てることもできず、相手の日常に新しく登場する誰かを「待つ」ことでけじめをつけたがるように見える人もいます。
片想い中の相手であっても同じで、「自分以外の誰かと恋仲になった現実」を知るまでは諦める決断ができず、自分の好意の維持を相手に委ねていると感じます。
「あってほしくない現実」の確認がしたいから、いつまでも相手の投稿をチェックしたい気持ちが抜けないのですね。
目を皿のようにして「自分の登場」を探す
筆者の過去の経験ですが、私のアカウントの投稿を日々確認しては「自分以外の誰か」の存在を恐れる男性の声を聞いていて気がついたのは、「自分が登場する内容ばかり探している」ことでした。
こちらの普段の生活を丸ごと知りたがるというより、「自分に向けられる関心の度合いがわかる投稿」だけに集中し、それ以外の内容については特に覚えていないのですね。
自分以外の男性と仲良くしていたり新しく知り合った男性がいたり、そういう「自分の存在が危ぶまれる内容」ばかりを記憶している印象でした。
極端な言い方をすれば、自分に向けられる未練の有無が確認できる投稿を目を皿のようにして探しており、少しでも「これは自分のことだ」と感じる内容について執拗に持ち出し、それが本当に自分についてかどうか確認もしないまま「書くな」と迫ることもありました。
こういう人の関心の中心には「未練を持たれている自分の確認がしたい」があり、それを期待して日々投稿をチェックするのですね。
その結果「親密度の高い男性の登場」がわかる投稿の後は、いっさいの関わりがなくなりました。
「自分について関心がなくなった」という現実を知ってやっと、接触を諦めるのだといえます。
自分の状態を相手任せにする人ほど、こうやって正面から好意を伝えることをせず、そもそも相手に向ける感情が好意なのかどうかすら疑わしいケースは、筆者以外の人からも多く声を聞きました。
自分が「捨てている可能性」について考えてみる
どんな関係であっても、過去に深い関わりのあった相手のSNSをこっそりチェックしては情報を把握したがる人は、それを知ることで自分の感情が決まり、好きでいることも無関心になることも相手の状態に左右されるといえます。
自分の意思で在り方を決められないのは自信がないからで、「自分はこう思う」をしっかりと掴んでもそれに添わない相手の様子を知るとショックを受けるため、最初から決断を放棄して相手の意思に委ねているとも感じます。
ですが、自分の足で立てないことはいつまで経っても「誰かがいないと困る」状況をみずからが作ることで、悪い流れになっても抵抗する力がなく気がつけば都合のいい存在になっていたなんて現実を避けられません。
相手に向ける執着はどこまでも自分の問題であって、相手にこちらの状態を何とかする義務はなく、その役割を負うかどうかは相手しだいになります。
「自分について無関心な相手」を知ることほど依存している人にとって恐ろしい現実はなく、それを避けるためにあれこれとネガティブな接触を続けても、前向きな気持ちのないつながりがあたたかい信頼や情愛を生むことはありません。
相手のSNSをチェックすることで何を本当は知りたいのか、「自分への関心の有無」ならその答えが出るまでいつまでも執着が消えることはなく、また新しい人の存在を確認しても「すぐ別れるかもしれない」と自分を思い出してもらえる可能性を捨てられないこともあります。
自分こそ「その人のいない現実への可能性」を捨ててしまっていることを、もう一度考えてみましょう。
望む現実が叶うかどうかは相手しだい、となると自分の状態を健全に維持することも相手の役目になり、そうしてくれないときに苦しむのは自分だけです。
自分の状態はみずからで手をかけて作り上げるもので、そこに相手の意思は必要なく、左右される理由もありません。
自分と相手の間には「違う人間なのだ」という境界線があり、お互いに相手の状態について義務を負わないのが自立です。
相手ありきで自分の気持ちを決めるのではなく、関わりは自分のなかに軸を持ってこそ前向きで幸せな好意が育つことを、忘れてはいけません。
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忘れられない人のSNSをチェックし続ける人には、どこかで縁の復活の可能性を捨てられない気持ちがあるのを感じます。
そうでなければストレスなく新しく関心を持てる人への好意を育てられるはずです。
相手の情報を知って自分の気持ちを決めるのではなく、相手の存在の意味は自分で作れること、自分の「どうありたいのか」から逃げない勇気が、居心地のいい関係を築く下地になると心得たいですね。
(mimot.(ミモット)/弘田 香)