近代京都画壇とは?竹内栖鳳や上村松園が生んだ新しい日本画の形
明治から昭和初期にかけて、革新的な絵画が生まれた場所――それが「近代京都画壇」です。伝統文化のイメージが強い京都ですが、当時の画家たちは新しい絵画を模索し、日本画に新たな息吹を吹き込みました。 この記事では、竹内栖鳳や上村松園をはじめ近代京都画壇を代表する画家を紹介し、その魅力を紐解いていきます。
京都画壇とは?
橋本関雪《夏夕》
「京都画壇」という用語は、主に江戸時代以降の京都の美術界を指しています。明治以降に使われるようになった「東京画壇」との対比で生まれた区分です。
江戸時代の京都では、狩野派や土佐派など伝統的な美術の流派だけでなく、円山応挙や伊藤若冲のような斬新な画風の画家も活躍していました。中でも応挙は、写実に基づくわかりやすい画風で人気を博し、後世の画家にも大きな影響を与えました。
上村松園《蛍》
時代が明治になると、西洋文化との出会いによって日本の美術界も大きく変わります。西洋絵画が流入しただけでなく、美術を学ぶ学校の必要性も論じられるようになりました。京都では、1880年に京都府画学校が設立。竹内栖鳳や上村松園も画学校で学びました。
新しい時代において、新たな表現を模索し、切り開いた画家たち。彼らが活躍した明治から昭和にかけての京都の美術界を「近代京都画壇」と呼びます。
近代京都画壇を代表する5人の画家
日本美術の展覧会で作品を見る機会が多い画家を中心に、5人の画家を紹介していきます。
近代京都画壇の画家①:竹内栖鳳(たけうち せいほう、1864-1942)
竹内栖鳳《飼われたる猿と兎》
近代京都画壇を牽引した重鎮、竹内栖鳳。写生を重視し、西洋絵画の手法も取り入れた栖鳳は特に動物画を得意とし、「けものを描けば、その匂いまで表現できる」と称されました。
京都に生まれた栖鳳は、円山・四条派の流れを汲む幸野楳嶺(こうの・ばいれい)に入門。門下生で四天王に数えられるなど若くして頭角を表した栖鳳は、1900年、パリ万博視察のためにヨーロッパへ渡ります。
竹内栖鳳《金獅》
現地で西洋美術に触れたほか、動物園で初めてライオンを目にします。新たな日本画を模索していた栖鳳は、日本では珍しかったライオンを見て、「これだ!」と感じたのではないでしょうか。熱心にスケッチし、帰国後にはライオンを描いた作品を多く発表しました。
栖鳳は伝統的な日本画の域にとどまらない絵画を打ち出しただけでなく、コミュニケーション能力にも優れていたようで、カリスマリーダー的な存在で京都画壇を牽引しました。ほぼ同時期に東京画壇で影響力のあった横山大観と並べ、「西の栖鳳、東の大観」と呼ばれることもあります。
近代京都画壇の画家②:上村松園(うえむら しょうえん、1875-1979)
上村松園《母子》
近代の美人画を代表する画家、上村松園。美人画で新たな境地を切り開いた松園は、その功績を讃えられ、女性で初めて文化勲章を受賞しました。
松園が理想としたのは、外見だけでなく内面を伴った美しさです。東西を問わず男性が多くを占めた画壇において、女性ならではの視点で気品ある女性の美を描き出しました。
上村松園《雪》
同じ頃に美人画で活躍した東京の鏑木清方と並べ、「東の清方、西の松園」と呼ばれることも。また、日本における女性画家のパイオニアとしても重要な存在です。女性の社会進出が難しかった時代、画家として活躍したい女性たちの希望でもありました。
近代京都画壇の画家③:橋本関雪(はしもと かんせつ、1883-1945)
橋本関雪《木蘭》左隻
神戸に生まれた橋本関雪は、東京画壇に在籍したあと京都に移り、大正・昭和期の京都画壇で活躍しました。漢籍(漢詩)への造詣が深く、中国の古典を画題とした詩情豊かな作品に特徴があります。
円山・四条派の流れを汲む関雪は、伝統を受け継ぎつつも、斬新なアイデアで独自の日本画を切り開きました。通常、右から左に場面が進む屏風絵を、左から右に展開するなど、それまでの常識を華麗に覆します。
歴史画、山水画、花鳥画、美人画、動物画など、多岐にわたるジャンルで活躍した関雪。どの作品でも、深い教養と発想力が光っています。
近代京都画壇の画家④:山元春挙(やまもと しゅんきょ、1872-1933)
山元春挙《瑞祥》
山元春挙は、「明治の応挙」と呼ばれた森寛斎に師事した、円山・四条派の流れを汲む画家です。伝統を踏まえながらも、ダイナミックな作風で独自の日本画を開拓しました。
特に見応えがあるのが、華やかな色彩と大胆な構成で描き出された風景画です。実際に登山して風景を見たり、当時は珍しかったカメラを活用したりと、徹底した取材で描く対象に迫りました。
早熟かつ人望も厚かったためか、20代の若さで弟子を抱えた春挙。栖鳳とはライバルの関係で、京都画壇で人気を二分していたこともあるそうです。
近代京都画壇の画家⑤:木島櫻谷(このしま おうこく、1877-1938)
木島櫻谷《寒月》左隻
木島櫻谷は、6回も文展(官営の公募展)に入選した実力派の画家。にも関わらず、長らく日本美術界で忘れられており、近年、再評価が進んでいます。
幼い頃から絵が好きだった櫻谷は、円山・四条派の流れを汲む今尾景年に師事し、徹底した写生を身につけます。同時に漢籍や歴史画、西洋絵画も学び、教養を活かして歴史画、動物画、山水画などあらゆるジャンルで実力を発揮しました。
カリスマ的な栖鳳と対照的に、櫻谷は穏やかな性格の持ち主でした。その人となりも、長らく忘れられていた理由のひとつではないか、とされています。近年では展覧会でも櫻谷の作品を見られる機会が増えており、今こそ知りたい画家ナンバーワンです。
今も人々を魅了する近代京都画壇の画家たち
木島櫻谷《駅路之春》右隻
急激な欧化が進められるなか、日本文化を見直す動きもあり、大きく揺れ動く時代を生きた、近代京都画壇の画家たち。彼らは伝統を受け継ぎつつも、旧来の枠にとどまらず、新しい日本画を切り開きました。
彼らの絵画は、今では「伝統的な日本画」に見えるかもしれません。近代京都画壇の革新はいつしか伝統になり、日本美術の歴史のなかで輝いています。