イメージとは少し違う? 宮本武蔵の真の姿とは
宮本武蔵は、江戸時代初期に活躍した剣豪として広く知られる存在である。
しかし、彼に関する史料は少なく、さらにそれらの史料の記述には相違が見られるため、その実像には多くの謎が残されている。
武蔵は、多くの小説やドラマ、漫画などで描かれているが、フィクションも多く混在しているだろう。
今回は、限られた史料からできるだけ武蔵の実像に迫っていきたい。
武蔵の出自
まずは武蔵の出自から触れて行こう。
武蔵の出生地については、作州(現在の岡山県)宮本村とする説が多い。
吉川英治の小説『宮本武蔵』や、井上雄彦の漫画『バガボンド』でも、武蔵は宮本村で生まれ育ったと描かれている。
武蔵作州出身説がこれだけ広まったのは、明治42(1909)年に岡山武蔵顕彰会が編集した『宮本武蔵』に、武蔵の出生地は作州との記述があるからだろう。
しかし、武蔵が晩年に書き残した『五輪書』や、武蔵の養子である伊織が建てた小倉碑には、武蔵の出生地は播州と明記されている。
さらに播州出身説を裏付けるものとして、兵庫県加古川市の泊八幡宮を修理する際に発見された棟札がある。
この棟札は、武蔵の死後8年目、承応2(1653)年に伊織によって起草されたものだ。
”作州の顕氏神免なる者あり。天正の間嗣なくして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承けたるを武蔵の掾玄信という。
後に氏を宮本と改め亦子無し。而して余を以て義子となす。故に余今その氏を称す。”
(原田夢果史氏による読み下し文)【意訳】
作州に新免という名門があったが、跡継ぎがいないまま死んでしまったため武蔵が家を継ぎ、武蔵は後に宮本に姓を改めたため、武蔵の養子である私(伊織)も、宮本姓を名乗っています。
この棟札の通りであるならば、武蔵が新免家の養子になったのは養父・新免無二の死後である。
つまり、武蔵は作州で生まれ育ったわけでもなければ、無二に育てられたわけでもないということになる。
しかしながら、新免無二が関ヶ原の戦い以前から慶長9年頃まで、黒田氏に仕官していたことを証明する黒田氏の文書『慶長7年・同9年黒田藩分限帖』も存在する。
もし『黒田藩分限帖』の通りだったとすれば無二に育てられた可能性はあるが、いずれにしても武蔵の出身地については播州説が有力だろう。
武蔵の処世術
宮本武蔵は、一般的には粗野で世間知らずな武芸者というイメージが強いだろう。
しかし実際のところ、武蔵は器用な策略家であった。
武蔵は関ヶ原の戦いのあと、20年にも及ぶ武者修行の旅に出る。
武者修行とは言っても、生きるためには金がなくては食べてはいけない。
どのようにして食いつないでいたかというと、武蔵は修行中も武具制作や書、画、彫刻、陶器などの才能を発揮して、自らの技能を金品に替えていたと考えられている。
無論、芸術に長けていても商才がなければ物は売れない。
武蔵が長きにわたって武者修行を続けられたのは、芸術と商売の才能があったからだと言えるだろう。
また先述したとおり、武蔵は養子をとっている。
通常、武者修行で全国を回って天下無双を目指すような男が、養子など迎え入れるだろうか?
この行動には、武蔵の合理的な一面が垣間見える。
徳川家康が死去した元和2(1616)年、徳川幕府は「一国一城の制」によって諸大名の武力を削減し、「武家諸法度」と「禁中並びに公家諸法度」によって法制を強化し、「伝馬・荷駄の制」で流通を掌握した。
戦国時代が終わり、乱世に乗じての立身出世が不可能となり、すべての武士は法により組み伏せられたのだ。
武蔵はこのとき、すでに44歳であった。
人生50年の時代で、大名に召し抱えられるには年を取り過ぎているし、武者修行を続ける年齢でもない。
また、天下の剣術者と呼ばれる武蔵ほどの格であれば高給になるし、並みの大名では報酬が払えない。
さらに天才の剣ゆえに伝授が難しく、お家の剣術指南役としても高給に見合うほどのパフォーマンスも見込みにくい。
こういった理由で、武蔵の仕官(求人)は、条件が厳しかったと考えられる。
そこで武蔵は、三木之助という養子を迎えて姫路藩・本多忠刻(ただとき)の小姓として出仕させ、養父として後見人の席に座ったのだ。
後に三木之助は、病死した忠刻を追って殉死してしまうが、武蔵は次なる養子・伊織を用意していた。
武蔵は三木之助が殉死した同年に、伊織を隣藩の明石・小笠原家に出仕させており、まるで自らの立場の危機を予測していたかのような対応であるから驚きだ。
武士の社会において、政略結婚や養子によって関係強化を図ることは、戦略として当然のことである。
しかし、一般的な武蔵のイメージからいえば、これらの行動は意外なものだと言えるだろう。
佐々木小次郎との「巌流島の戦い」
宮本武蔵を語るときに外せないのが、佐々木小次郎との「巌流島の戦い」である。
そもそも、この巌流島の戦いはなぜ行われたのだろうか。
後世に伝わる大掛かりな決闘であったにも関わらず、なぜか各文献には決闘の詳細についての記述のみで、そこに至った事情についてはほとんど触れていない。
しかし、寛文12年(1672年)に細川藩家老の沼田延元の子孫が書き残した『沼田家記』の記述からは、その背景がうっすらと浮かび上がってくる。
”双方共に弟子一人も不参筈に相定 試合を仕候処 小次郎被打殺候
小次郎は如兼弟子一人も不参候 武蔵弟子共参り隠れ居申候
其後に小次郎蘇生致候得共 彼弟子共参合 後にて打殺申候”【意訳】
双方ともに弟子を連れてこない約束だった。
仕合には武蔵が勝利し小次郎を破った。
小次郎は約束通り弟子は連れてこなかったが、武蔵の弟子たちはついてきて隠れていた。
後に小次郎は息を吹き返したが、武蔵の弟子たちが出てきて小次郎を撃ち殺した。
まず、『沼田家記』のような決闘見聞録が残されていることから、巌流島の戦いが藩公認の公式仕合だったことが窺える。
それにも関わらず、武蔵側の約束破りには何のお咎めもない。
しかも、武蔵は後に沼田延元に鉄砲隊の護衛までつけてもらい、豊後に送り届けられている。
延元の武蔵に対する扱いは明らかに不自然であり、一方、当時細川藩の剣術指南役であった小次郎に対する扱いは、あまりにもおざなりである。
このことから、当時の細川藩内では、小次郎をめぐる何らかの事情があったと考えられる。
いずれも推測の域を出ないが、小次郎が邪魔になった細川藩が、武蔵を使って小次郎を排除したかったという可能性もある。
また、巌流島の戦いにおいて武蔵が2時間遅刻したというエピソードは大変有名であるが、これは後世に創作されたものである可能性が高い。
伊織が残した小倉碑にも、「両雄同時に相会す」と明記されている。
そもそも武士が仕合を行う場合にはいくつかの守るべきルールがあり、その中のひとつに「時刻厳守、決められた決闘場で行う」というものがある。
先述のとおり、巌流島の戦いは藩公認の仕合であったと考えられる。
決闘が藩主の了解を得て行われる以上、遅刻そのものが藩主を侮辱する行為である。
仮に武蔵が2時間も遅刻していたとしたら、仕合う以前に罰せられていたことだろう。
このことから、巌流島の戦いは藩運営の元、予定時刻通りに粛々と行われたと考えるのが妥当ではないだろうか。
おわりに
宮本武蔵は名前こそ有名であるものの、文献が少ないことや後世の創作が多いことから、そのイメージは一人歩きしており、野蛮で卑怯な人物とする見方もある。
限られた文献を踏まえると、武蔵は芸術的才能と商才があり、処世術にも長けた人物で、巌流島での遅刻も疑わしい。
武蔵の真の姿を知るには、さらに多角的な視点で捉える必要があるだろう。
参考 : 『宮本武蔵50の真説』宮本武蔵研究会/編、高橋華王/監修 他
文 / 小森涼子
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