1986年の名盤!浜田省吾「J.BOY」が “Jリーグ” や “J-POP” のルーツ説を徹底検証
浜田省吾の代表作「J.BOY」のもう1つの功績
1986年9月4日に発表された浜田省吾10枚目のアルバム『J.BOY』は、まだレコードが主流だった80年代を代表する名盤として語り継がれている。浜田省吾は、本作がオリコンアルバムチャートで1位(4週連続を含む計5週)を独走することで確固たる地位を確立した。2枚組ということで通常のアルバムよりも割高だったが、それでも売れ続けたのである。
『J.BOY』が日本のポピュラー音楽史に与えた影響についてはこれまでも語られているが、ここでは本アルバムが果たしたもう1つの功績に焦点を当てたい。
そう、タイトルの『J.BOY』は浜田省吾による造語で、“Japanese Boy” を略した表現だ。そして、この『J.BOY』というネーミングが、“日本の〇〇” という意味での “J 〇〇" という固有名詞が激増したきっかけだという説がある。さあ、果たしてそれは事実なのか?
「J.BOY」以前の「J 〇〇」系ネーミング
まず、確認しておきたい点は浜田省吾の『J.BOY』以前にも、国内で “J 〇〇" という固有名詞は多数存在していたことである。ただし、それは『J.BOY』とは系統が異なり、主に次の2パターンに分類される。
【JCB型の固有名詞】
信販会社の「JCB(ジェーシービー)」のように、頭文字のアルファベットをそのまま読む系統。例えば、「日本ボクシングコミッション」の略称は「JBC(ジェービーシー)」であり、同じく “JCB型” に属する。
【JAL型の固有名詞】
日本航空の愛称「JAL(ジャル)」のように、頭文字のアルファベットを1つの単語として読む系統。ジャパンアクションクラブ =「JAC(ジャック)」や、日本広告審査機構 =「JARO(ジャロ)」もこれに該当する。
それに対し、『J.BOY』はJBと略さずにBOYをそのまま使用している。JAPANやJapaneseを “J” と略し、それを他の単語とくっつけて1つの言葉にする系統である。当時としては斬新で、従来の “JCB型” や “JAL型” とは異なるアプローチだった。この “J.BOY型” が増えたのは確かに『J.BOY』のリリース以後のことである。しかも、興味深いことに『J.BOY』後には “JCB型” や “JAL型” も増えている。果たしてどんな事情からだろうか?
80年代後期の社会背景と「J.BOY」
戦後の高度経済成長の中、1968年にGNP世界第2位の国となった日本は、80年代に先進国、経済大国としての地位を堅守していた。日本製品は “Made in Japan” として高品質で信頼性が高いと世界的に評価されるようになり、ハリウッド映画を観ると、当たり前のように日本企業のロゴがあちこちに登場するようになっていた。『J.BOY』のリリースはそんな時代である。1986年9月、日本経済が臨界点に達する前夜ともいえるタイミングだ。
『J.BOY』以後の数年間で日本企業は、ゴッホの『ひまわり』やロックフェラー・センター、コロンビア・ピクチャーズ、MCA(NBCユニバーサルの前身の一部)を手に入れた。バブル経済による高揚感もあり、政治思想とはあまり関係なく “日本スゴイ” のムードが高まっていた。これが、“J 〇〇" が増える背景だと考えられる。 ここで、「J.BOY」リリース後に “J 〇〇” が急増した事例を時系列で整理してみよう。
▶ 1987年
日本国有鉄道の分割民営化に伴い、「JR」グループ各社が発足。また、日本中央競馬会が愛称を「JRA」に変更した。
▶ 1988年
日本交通公社が「JTB」、日本たばこ産業が「JT」という愛称の定着を狙ったプロモーションを展開する。民放FM局「J-WAVE」が開局し、やがて日本のポピュラー音楽を意味する「J-POP」の呼称を使用し始めた。
▶ 1989年
日本オリンピック委員会「JOC」が独立した法人となる。
▶ 1991年
WOWOWの名称で「JSB(日本衛星放送)」が放送開始。
▶ 1992年
農業協同組合(農協)が「JA」の呼称を用いるようになる。女子プロレス団体「JWP」が設立される。
こうしてリストアップしてみると、まだまだ “J.BOY型” は少ない。一気に増えたのは1993年に発生したビッグウェーブのあとだ。
▶ 1993年
日本プロサッカーリーグが「Jリーグ」の愛称でスタートし、空前のサッカーブームが巻き起こる。
当時はすでにバブル崩壊後だったが、サッカー界に不況の匂いはせず、多くの業界がその人気にあやかろうとし、“Jリーグっぽい” ネーミングや意匠を取り入れた。代表的なものに、「日本食肉消費総合センター」が定めた国産牛肉の総称「Jビーフ」がある。これは当時、田中邦衛が出演したCMで強いインパクトを残している。
定着した “J-POP” とその影響
「Jリーグ」の台頭により、日本の〇〇という意味での “J 〇〇" が定着し、「J-WAVE」限定の呼称だった「J-POP」は90年代前半に一般名詞となる。また「J-ROCK」「J-RAP」などの派生語も生まれた。日本映画を「J CINEMA」「J MOVIE」と呼ぼうとする動きもあったように、様々なジャンルで同様の現象が起きた。なんでもかんでも “J” を付けるのが流行ったのだ。プロレス界では、新日本プロレスで野上彰と飯塚高史のタッグチーム「J.J.JACKS」が結成された。
サッカーブームが一段落してからも “J.BOY型” は増えていった。1997年に東京デジタルホンが「J-PHONE」の愛称を使用開始。また “J” の意味は異なると思うがTOKIO、KinKi Kids、V6によるチャリティユニット「J-FRIENDS」も結成された。キックボクシング団体「J-NETWORK」の設立も1997年だ。1998年にはスポーツ専門チャンネル「J-SPORTS」が開局した。また、この年に公開された『リング』など日本のホラー映画は「Jホラー」と呼ばれるようになる。そしてジュピターテレコムは「J:COM」というブランドを使用開始する。
1999年にはEXILEの前身「J Soul Brothers」がメジャーデビューした。さらに2000年代以降も企業の再編やCIにより、「J-オイルミルズ」「J.フロント リテイリング」などが誕生。他にも様々なジャンルに “J.BOY型” の “J 〇〇” が生まれた。ここに挙げたのは一例に過ぎない。
“J.BOY型” の元祖は「J.BOY」なのか?
『J.BOY』というタイトルは「Jリーグ」開幕の7年も前に考え出されたものである。浜田省吾の時代の風を読む力には驚かされる。では、“J.BOY型” の “J 〇〇” はそれ以前には存在しなかったのか? 本当に『J.BOY』が元祖なのか?
アパレルブランド「J.PRESS」「J.CREW」はもっと以前から存在したが、いずれもルーツはアメリカである。「何も言えなくて…夏」のヒットで知られるロックバンド「J-WALK」(現:THE JAYWALK)は、1980年のデビューだが、そのバンド名は “Jaywalking” (横断禁止を無視する行為)という英語のスラングが由来だ。坂上忍は1984年に「J.D.BOY」という曲で歌手デビューしているが、この “J.D" はジェームズ・ディーンのイニシャルである。
そんな中、1984年に1号店が溜池にオープンし、その後店舗数を増やしディスコ的な業態に変化した「J TRIP BAR」の存在は見逃せない。ただし、都内屈指の夜遊びスポットだった「J TRIP BAR」各店は、いずれも日本テイストの店ではなく、“J” がJAPANを意味するという説明はなされていない。経営者のイニシャルが “J” であることが由来だという見方もできる。これも微妙だ。
やはり、『J.BOY』以前の “J.BOY型” はなかなか見つからない。しかし、多方面を調べに調べた結果、 “J 〇〇” ではなく “〇〇 J” ならあった。1979年放送のスーパー戦隊シリーズ第3弾「バトルフィーバーJ」(テレビ朝日系)だ。作品内では “J” の意味について語られないが、戦隊のリーダー格の名前は「バトルジャパン」である。したがって、この “J” はJAPANの “J” だと考えるのが妥当だろう。
いずれにしても、「J TRIP BAR」も「バトルフィーバーJ」もネーミングの面で単発的であり、大きな波を作っていない。やはり、 浜田省吾の『J.BOY』は “J.BOY型” ネーミング激増の偉大なるトリガーであることは間違いないだろう。以上、アレが抜けているじゃんか!とか、〇〇の方が先だろ!というツッコミは覚悟の上だが、どうかお手柔らかに願いたい。