発酵・熟成・保存を芸術に高める「サイシーン」。その英国的なあり方とは?
それは英国料理の進化系なのか、はたまた全く新しいジャンルなのか。まるでアトリエのような厨房が21世紀に創造する料理とはどんなものか。美しいダイニングとともにご紹介しよう。
真に「実験的」なレストランは、大地とのコラボをやめず、マシンも使わない。先日そんな心意気の美しいレストランを訪れた。トレンドを発信する東ロンドンの一画にあり、その名を「Cycene /サイシーン」と言う。Cyceneとは古英語で「厨房」を意味するそうだ。その厨房は2022年秋に立ち上がって以来、英国の風土と協働しつつ、「究極の厨房アトリエ」であり続けている。
母体になっているのは「Blue Mountain School」と呼ばれるアート・プロジェクトである。6フロアに渡って衣食住をテーマに現代的なライフスタイルを提案。北欧的なミニマリズム、禅的な佇まい、英国的な質実剛健さがそれぞれ混ざり合い、雄弁に語り出す独自色の強い空間だ。
その2フロアを占めるサイシーンは、Blue Mountain Schoolのオーナー夫妻とシェフの共同プロジェクトなのだが、食事の方法がまた独特。まず1階のスタイリッシュなバーで、ブロスや自家製パン、おつまみなどを食し、上階のキッチンへと移動する。作り手の顔を見ながら数コースを堪能した後、落ち着けるダイニング・スペースへご案内。味わう全てに五感を刺激され、ついつい食材の声に耳を傾けてしまうのだ。
東洋的センスあふれるスタイリッシュなバー。オーナーの美的感性があますところなく表現されている。
英国では体調を整えるために飲むこともあるチキン・ブロス。サイシーン風。
自家製麹をすり込み3日半寝かせた豚の生ハム。自家製サワードゥ・ブレッド。鶏のコンソメ。
創業5ヵ月でミシュラン一つ星を獲得。現在の厨房指揮を執るのは、今年になってチームに加わり、8月からヘッドシェフに就任したタズ・サルハーンさん(Taz Sarhane /写真下)だ。英国とモロッコのルーツを持つタズさんはフォレジングを愛するカントリーマンであり、土壌との対話が味の決め手になると知っている。
「土を触るとバクテリアの存在が感じられ、とても幸せな気持ちになる。それが僕の原風景の一つ。自然との接点を失いたくない。機械を使うとフレーバーや感覚的なものを失ってしまうので、手作業を重視しているよ」
店内には季節ごとに採取したさまざまな食材を扱う発酵室や、肉や魚の熟成室も整い、年間を通してクオリティの高い保存食を提供していく。旬の食材を自然ごと封じ込め、一年中楽しむことは、保存食作りに情熱を抱くタズさんらしい理念だ。
28歳とは思えない落ち着きのあるタズさんは、複数の2つ星レベルのレストランで働いた経験がある。右の写真は本マグロのスライス。冒頭写真のマグロのタルタルとセットでいただく。
非常に落ち着く店内。正面にはフランク・アウアーバッハの作品が飾られている。
突き出し3種のうちの一つ、ライムとブラックカルダモンでしめたサバのタルト。ラディッシュをあしらっている。これらに合わせた微発酵のブラッドオレンジ・ジュースには、炒り蕎麦の香りをインフューズしてあり、初めての味わいだった。
テイスティング・メニューで本当に驚いたのは、油脂使いのユニークさ。骨髄から豚の脂、フォアグラ・オイルまで多様な油脂を駆使し、旨味に濃淡をつける。
例えばコースの最初に供されたチキン・コンソメは鶏の足をこだわり野菜ブロスの中でじっくり煮詰めたもので、それだけでも相当に濃厚なのだが、あえて豚の脂を少し追加することでフレーバーに厚みを与える。最後にシェリー・ヴィネガーを一振りしてフィニッシュ。
本マグロのコースは2種類の調理で。最初にマテティーのゼリーと発酵昆布を載せたタルタル(冒頭写真)の新鮮さを味わい、次に45度に温めたヒマラヤソルトの上で処理した熟成マグロを、11日間熟成させたフォアグラのオイルに泳がせ、そのコクと旨味を楽しむ。濃厚になりすぎる口内は、紫蘇と桜の風味を抽出した発酵茶で洗い流すといった具合。
正直、自分には少し脂分が強すぎると感じるものもあったが、いずれも食材または飲み物で酸味を組み合わせることで、バランスを取る試みがなされる。発酵食品も発酵ドリンクも、全てが自家製だ。
キノコの皿。セップ茸、舞茸、セップ・ピューレ、ローストした英国産サルシファイ、チキン・ストック、生のマッシュルーム。自家製3年熟成ブラックフツ・カボチャ味噌。
備長炭で調理したロブスター。トマト、サンファイア、エシャロットのピクルスを敷き、蟹のビスク・ソースで。最後に発酵トマトの皮と混ぜたホタテ卵のパウダーを一振り。
3日間乾燥熟成したマトウダイ(ジョンドリー)。キュウリのチャツネの上に載せ、キュウリを飾り、キュウリのダストを散らす。コーヒー・オイルが味を引き立てる。
「食材はどこから取り寄せるにせよ、その生産者と直に会って話を聞くことにしている」とタズさん。例えばメインコースとして出されているハイランド和牛。週に2頭しか屠殺しない農場のものを使っている。自分の手で育て、屠殺した農場主が、自らレストランに運んでくるのだそうだ。その人の話に耳を傾け、どれほどの思いでそれをやり遂げているかを知ることが、タズさんには重要なのだという。
もう一つ素晴らしかったのは、ドリンクのペアリングだ。ワインのみ、ノンアル・ドリンクのみ、それらを交互に楽しむハーフ&ハーフの3種から選ぶことができるのだが、これほどまでに食とマッチし、かつ自ら主張するドリンクは初めて。ドリンクが確実に食事を補完するイメージもあるので、ぜひいずれかを組み合わせてみてほしい。
虫のような形をしたプラムとホワイトチョコレートのガナッシュ。秀逸なメインのデザート。この前に口の中をさっぱりさせるため、ローズマリー風味のワイルドブルーベリーソルベが出された。
8月に採れた青い松の実をシロップ漬けにしてアイスクリームを作り、蕎麦粉のビスケットで挟んだもの。クリスマス時期にもふさわしいプチフール。
サイシーンの料理は食材と技術だけ見るとインターナショナルだが、完成品は実にブリティッシュ。肉食文化としての英国料理の洗練形を見る思いがする。タズさんが創り出す多重奏のフレーバーは、英国の大地そのものなのだ。今後もその厨房アトリエが創造する作品世界に注目していきたいと思う。
Cycene
https://www.bluemountain.school/cycene
text・photo:江國まゆ Mayu Ekuni