富士見町、樋口達さん 満蒙開拓 今も記憶鮮明 敗戦後の襲撃「怖さすら通り過ぎ」
1930年代から旧満州(中国東北部)を開拓する移民団「満蒙開拓団」の一員として海を渡り、戦後の動乱を経て帰国した人が横須賀市富士見町にいる。樋口達さん(92)。当時14歳で敗戦後、現地住民から度重なる襲撃を受けた。数百人規模で集団自決する開拓団もある中、無事に引き揚げることができたが、命の危険にさらされた記憶は今も鮮明だ。「戦争はしちゃいけない」。戦後79年を経て改めて思う。
樋口さんは長野県富士見村(現富士見町)出身で、1941年に家族とともに国策の農業移民として黒竜江省木蘭(もくらん)県に入植。当時9歳だった。
村長だった父・隆次さんが開拓団長を務め、現地住民とは良好な関係性を築いていたが、日本が敗戦し無条件降伏を受け入れると立場が一転。一部の住民から何度も襲撃を受けるようになった。
おびえながら夜を明かす日々。「もう、怖いを通り過ぎちゃってる。いざとなったらやるしかない」。襲撃で犠牲になった仲間もおり、女性らには集団自決用の毒物が配られたという。
食糧事情もひっ迫し、襲撃は苛烈さを増した。学校と病院を拠点に立てこもり、病院が武装した住民に包囲され絶体絶命の危機に陥ったが、駆けつけた中国共産党の軍隊に助けられ大勢の仲間は九死に一生を得た。それでも終戦翌年8月の引き揚げ時、入植時に千人いた開拓団は病死などで600人にまで減っていたという。
後世に警鐘
戦後、日中関係が改善されると現地の国民学校の同窓生で「木蘭友の会」を結成。樋口さんも85年から2年ごとに訪中を重ね、仲間の供養に加えて公園建設や災害復興支援のための寄付もするなど、民間での日中友好に尽力してきた。
当時の窮地を救われた中国を現在では「第二の故郷」と慕う。一方、国策の名の下に翻弄された当時の経験を踏まえ、こう警鐘を鳴らす。
「危険にさらされ、犠牲になるのは国民。だから戦争は絶対に繰り返しちゃいけない」