【モダン・ジャズ・カルテット】不動のメンバーで40年近い活動を続けた不世出のジャズ・コンボ ─ライブ盤で聴くモントルー Vol.60
「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。
モダン・ジャズ・カルテットのメンバーが固定したのは1955年。以後、ドラマーのコニー・ケイが死去するまでの40年近い間、このグループは不動の顔ぶれで活動を続けた。ミルト・ジャクソンとジョン・ルイスという個性のまったく異なるプレーヤーがツートップに立ったこのリーダー不在のバンドの魅力と、それぞれのメンバーの知られざる素顔に迫る。
シネジャズの先駆作『大運河』
1957年に公開された映画『大運河』は、映画音楽にモダン・ジャズを起用するいわゆるシネジャズの先駆とされる作品で、公開はマイルス・デイヴィスが音楽を担当した『死刑台のエレベーター』に一年ほど先んじている。スコアを書いたのはジョン・ルイス、演奏はモダン・ジャズ・カルテット(以下、MJQ)であった。ジャズ・ファンには説明の要はないが、ルイスはMJQのピアニストであり音楽監督だった。
映画『大運河』
『死刑台のエレベーター』の音楽をマイルスはラッシュ・フィルムを観ながら即興でレコーディングしたという話が伝わり、昔の高名なジャズ評論家もよくそんなことを書いていた。これは完全な虚説というわけではないが、真実でもない。
事実は、マイルスはフランス滞在中に映画音楽を依頼され、レコーディングの2週間前にラッシュ・フィルムを見せられたのだった。レコーディングまでに十分な時間があったので、彼はホテルの部屋にピアノを運び込ませて、音楽の構想をじっくり練ることができた。
レコーディングは現地のメンバーを擁したクインテットで行われ(ドラマーは、MJQの初期メンバーで、パリに住んでいたケニー・クラークだった)、これはマイルスのいつものスタイルであるリハーサルなしの本番であった。もちろん、曲の構成やコードを書いたメモくらいはメンバーに渡されただろう。監督のルイ・マルは音楽が必要なシーンのフィルムを特別に編集して、それを繰り返し流す中でレコーディングは進んだ。
音楽のイメージと構成がマイルスの中にすでにあったという点で、レコーディングは即興ではなかった。しかし、演奏自体は即興に近いものであり、かつフィルムがその場で流されていたという点では、映像に合わせたレコーディングという説もあながち嘘ではなかったことになる。
創造的なハプニングを好むマイルスの方法論によって、『死刑台のエレベーター』はジャズとしても映画音楽としても極めて水準の高い作品となった。一方、ジョン・ルイスの方法論はマイルスとはかなり異なるもので、彼が『大運河』のスコア制作にどのくらいの時間を費やしたかはわからないが、相当の時間をかけて全曲を作曲し、念入りにアレンジをし、かつリハーサルを十分に繰り返したのちにレコーディングしたことが、同映画に提供された曲をまとめた名盤『たそがれのヴェニス』から察せられる。
「統制された即興音楽」にして「スウィングする室内楽」
クラシックの素養をもつジョン・ルイスの作曲と緻密なアレンジがあり、一方にミルト・ジャクソンのブルース・フィーリング豊かなヴィブラフォンのプレイがある。その相異なる要素の融合によって、MJQの「統制された即興音楽」にして「スウィングする室内楽」は生まれた。
ディジー・ガレスピーのビッグ・バンドのメンバーだったミルト・ジャクソン、ジョン・ルイス、レイ・ブラウン、ケニー・クラークの4人が、ミルトをリーダーとするカルテットを結成したのは1951年頃のことである。このミルト・ジャクソン・カルテットが長続きしなかったのは、ジョン・ルイスによればミルトがメンバーに金を払えなかったからで、その後ルイスが実質的なグループの中心となり、レイ・ブラウンに代わりまだベース歴数年に過ぎなかったパーシー・ヒースが新メンバーとなって、モダン・ジャズ・カルテットはスタートしたのだった。
その後、さらにドラムのケニー・クラークがコニー・ケイに代わったのが55年で、これを不動のメンバーとしてMJQは74年までの長期にわたって存続し、その後もいくどとなく再結成を繰り返した。
ジョン・ルイスが表立ってリーダーを名乗らなかったのは、バンド・リーダーとしてはどうやら無能だったらしいミルト・ジャクソンへの気遣いがあっただけでなく、ミルトが演奏するヴィブラフォンという楽器が間違いなくグループの顔になるだろうと判断したためだと思われる。
ヴィブラフォンは1920年代に開発された比較的新しい鍵盤打楽器で、独特の音像で空間を支配する力においてシタールや尺八に匹敵する。当時、ライオネル・ハンプトンを除いてヴィブラフォンのスター・プレーヤーはほぼ皆無であったから、この楽器をフロントに据えたバンドは間違いなく耳目を集めるという目算がジョン・ルイスにはあったのだろう。自分がリーダーとして立ってしまってはミルトの影が薄くなる。だから、リーダーなしのカルテットとすべきである。そう彼は考えたのだと思う。結果MJQは、50年代のジャズ界では異例の、リーダーのいないパーマネントなバンドとなったのだった。
MJQとビートルズの関係とは
MJQが一糸乱れぬまとまりをもつグループであるというイメージが定着したのは、ごく初期のドラマーの交代を除いてメンバー・チェンジがまったくなかったからであり、ジョン・ルイスが中心となってつくり上げた音楽の方向性に一切のぶれがなかったからである。加えて、ブルックス・ブラザーズで仕立てた揃いのスーツやタキシードをユニフォームとしたビジュアルも、彼らのイメージづくりに大いに役立った。
資料があるわけでも明確な根拠があるわけでもないが、ビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタインが、革ジャンパーに革パンツもしくはジーンズというデビュー前のビートルズの服装を揃いのスーツに変えさせたのは、同じく4人組バンドであったMJQの影響があったのではないかと私は考えている。
可能性はなくはない。エプスタインは当時、ビートルズの地元のリヴァプールのみならず全英有数のレコード・ショップであったNEMS(North End Music Stores)の経営者であった。「ないレコードはない」というのがこの店のモットーであったから、MJQのレコードは当然店で売られていただろうし、メンバーが揃いのスーツを着た写真もエプスタインは見ていただろう。ファッションに対する一言居士であった彼が、MJQの上品なたたずまいにビートルズが大衆にアピールする鍵を見たのはありえないはない話ではないと思う。ちなみにMJQは、ビートルズが設立したアップル・レコードから2枚のアルバムをリリースしている。
これも、ちなみに、という話になるが、ポール・ウェラーはジャムを解散してスタイル・カウンシルを結成したとき、心中には「MJQとスモール・フェイセズの中間を行く」というコンセプトがあったと80年代のインタビューで語っていた。MJQの影響の射程は、ジャズ界を超えて思いのほか広いと見るべきだろう。
R&Bの名門アトランティックに残された作品
50年代から70年代にかけて数多くの名アルバムを残したMJQだが、その多くはR&Bの名門アトランティック・レコードからリリースされている。56年の『フォンテッサ』から74年の『ラスト・コンサート』、さらにその後の武道館での81年の再結成ライブ盤まで、その数は20枚以上にのぼる。
アトランティックにおけるMJQのほぼすべてのアルバムをプロデュースしたのは、同社の社長アーメット・アーティガンの実兄で、ジャズ部門の責任者であったネスヒ・アーティガンであった。以下は、英BBCが制作したアトランティックのドキュメンタリーの中でのネスヒの発言。
「(MJQの)主要構成員のふたりは著しく対照的でした。音楽監督ジョン・ルイスは完全無欠のプロフェッショナルで、つねに冷静沈着、クラシック音楽の感覚に優れ、バッハを誰にも負けないくらい見事に奏でられる腕の持ち主。一方、ヴァイブ奏者のミルト・ジャクソンはまちがいなく、過去40年において一、二を争うほど流麗な即興演奏家であり、その精髄においてブルース奏者でした」(『私はリズム&ブルースを創った』ジェリー・ウェクスラー/デヴィッド・リッツ)
『私はリズム&ブルースを創った〈ソウルのゴッドファーザー〉自伝』著・ジェリー・ウェクスラー、デヴィッド・リッツ/刊・みすず書房
アトランティックはMJQの作品と並行して、ミルト・ジャクソンとジョン・ルイスのそれぞれのソロ・アルバムも数多く制作している。MJQの活動にとらわれずに2人が自由に音楽を表現できる場を用意したということだったのだろう。その「ガス抜き」が奏功してか、アップル・レコードに移籍したわずかの時期を除き、MJQとアトランティックの契約は25年の長きにわたった。
再結成期のステージからの選曲
MJQが解散したのは74年である。これも事情は金がらみで、バンドのギャラの安さに不満のあったミルト・ジャクソンが脱退を申し出たと伝わる。金に文句があるということは、十分な金が得られればバンドとして演奏するのにやぶさかではないということで、どのくらいのギャラを提示されていたのかはわからないが、その後MJQは何度も再集結を重ねた。
先述のように、81年には武道館で再結成ライブを行い、翌年にはモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演している。いずれもライブ盤が残っていて、さらにその後もほぼ1年から数年おきのペースで彼らはライブないしレコーディングを行った。
2023年に『The Montreux Years』のシリーズ中の一枚としてリリースされたライブ・コンピレーションは、再結成期にあたる1985年から93年までの計5回のモントルー出演時の演奏計11曲を集めたものである。
「ジャンゴ」は、彼らの代表作『ジャンゴ』(1956年)の表題曲であり、ジョン・ルイスの代表曲でもある。ベルギー出身のギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトに捧げられたこの曲は、ルイスの静謐な美意識が凝縮した名作で、MJQは何度となくステージで取り上げた。
ジョン・ルイスは周囲からはバンドの統率者と見られていたが、マイルスやチャールズ・ミンガスのグループと比べたらMJQにおける統率などないに等しい、と本人は語っていて、ほかのメンバーの見解もおおむね一致している。MJQは思いのほか自由なバンドであったらしい。
「バグス・グルーヴ」もMJQを代表する曲で、作者はミルト・ジャクソンである。最高の名演を一つ挙げよと言われたら、ミルトやセロニアス・モンクが参加したマイルスのリーダー・アルバム『バグス・グルーヴ』(1954年)ということになるが、MJQのステージでもこれは「ジャンゴ」に並ぶ定番曲であった。シンプルなブルースがなぜこれほどクールでファンキーに響くのかと、この曲を聴くたびにいつも思う。
ミルト・ジャクソンは、たいへんに優れた耳を持っていたらしく、10代の初めの頃から、一度聴いた曲はそのままピアノで弾くことができたと語っている。
「民主的企業体」としてのMJQ
「ブルース・イン・Aマイナー」は、バッハをテーマにした『ブルース・オン・バッハ』(1973年)からの曲で、同アルバムには、バッハ(BACH)の名にちなんで、Bフラット、Aマイナー、Cマイナー、H(B)の4種類のブルースが収録されていた。この曲では、パーシー・ヒースのベースがフィーチャーされている。
ヒースは第二次大戦中、米軍史上初の黒人航空部隊「タスキーギ・エアメン」の一員であった。彼はその除隊金を元手にしてベースを買ったのだった。ベースを始めたのは1946年で、一日に18時間から20時間の練習を重ね、早くもその年中にステージで演奏を始めている。ミンガスのレッスンも受けたようだが、MJQに加入した頃のヒースはまったく未熟で、彼と演奏するのは地獄のようだったとジョン・ルイスは回想している。
しかしその後はめきめきと腕を上げ、MJQのメンバーとしてのみならず、数々のセッションで大いに活躍した。生涯で参加したレコードは300枚を超えたと言われる。彼はたいへんに謙虚な男だったようで、「ミルト・ジャクソンとジョン・ルイスの間に立って、こんなに楽しい思いをしながら、本当にお金までもらっていいものだろうか、と思っていた」と語っている。自己名義の作品『ア・ラヴ・ソング』をリリースしたのは2003年、79歳のときで、これが最初で最後のリーダー・アルバムとなった。
MJQは一種の企業体で、ジョン・ルイスが音楽監督という名の社長、ミルト・ジャクソンが広報担当、パーシー・ヒースが会計担当、コニー・ケイがツアー時の宿泊と交通を手配する役割を担っていた。MJQの全員にインタビューをした音楽評論家のラルフ・J・グリーソンは、ヒースの立場を「三十ヶ国で事業展開する会社の最高財務責任者として仕事をするようなもの」と表現している。
『The Montreux Years』には、ドラマーのコニー・ケイが死去する前年の93年のステージから3曲が選ばれている。そのうちのひとつ「ザ・ゴールデン・ストライカー」は、先に紹介した『たそがれのヴェニス』の冒頭を飾る曲で、これもジョン・ルイスの代表作に数えられる。『The Montreux Years』に収録されたバージョンも、チャーミングな旋律とコニー・ケイの軽快なプレイが溶け合った名演である。
コニー・ケイは、ビ・バップ発祥の現場と言われるニューヨークの「ミントンズ・プレイ・ハウス」のハウス・ドラマーだった男で、チャーリー・パーカーやバド・パウエルと共演し、その後レスター・ヤングのクインテットに参加している。異色と言っていいのは、ほぼ同時期にアトランティックのセッション・ドラマーの仕事もこなしていたことで、ビッグ・ジョー・ターナー、レイ・チャールズ、ルース・ブラウンらの初期のアルバムのバックでドラムを叩いているのは彼である。のちの話になるが、ヴァン・モリソンの代表作のひとつ『アストラル・ウィークス』(1968年)のドラムを担当したのもコニー・ケイだった。「私は立派なロックンローラーだった」と彼は振り返っている。
「このカルテットでは、事実上一人ひとりが個人主義者であることを求められていて、メンバーそれぞれが自分の楽器で何かを起こして、それが全部一緒に混じり合うことを前提にしている」──。このコニー・ケイの言葉が、MJQの性格を的確に表現している。MJQは実はジョン・ルイスのバンドでも、ミルト・ジャクソンのバンドでもなく、4人の名手の絶妙なバランスの上に成立した民主的なグループだった。そうでなければ、群雄が並び立つモダン・ジャズ界にあって、40年近くも存続することはできなかっただろう。
※引用元を明示している箇所以外の引用はすべて『カンバーセーション・イン・ジャズ ラルフ・J・グリーソン対話集』トビー・グリーソン編/小田中裕次訳/大谷能生監修(リットー・ミュージック)より。
文/二階堂 尚
『The Montreux Years』
モダン・ジャズ・カルテット
■1.Ko-Ko 2.A Day in Dubrovnik 3.Django 4.Blues in A Minor 5.Bags’ Groove 6.The Golden Striker 7.One Never Knows 8.Le Cannet 9.Nature Boy 10.Rockin’ in Rhythm 11.True Blues
■ミルト・ジャクソン(vib)、ジョン・ルイス(p)、パーシー・ヒース(b)、コニー・ケイ(ds)
■第18回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1985年7月19日ほか