沖縄・久高島で原始の自然と祈りにふれる旅。神の島の“あるがまま”に心洗われて
沖縄本島の南東に位置する久高島(くだかじま)は、周囲8kmほどと小さい。けれど存在そのものが大きな意味をもつ。琉球神道において、開闢(かいびゃく)の始祖が降り立った島なのだ。神々が宿る島をめぐり、沖縄の始まりと信仰にふれる。
はじめに知っておきたい、沖縄独自の信仰とは?
沖縄では、古琉球や琉球国の時代から「琉球神道」という多神教宗教が根づいていた。根底にあるのは、神話や自然崇拝に重きを置く考え方。琉球神道において、女性は神的または巫女(みこ)的な素質をもつとされ、村落の繁栄のために祈りを捧げるのは女性の役割だった。また、沖縄の村にはいまでも必ずといっていいほど「御嶽(うたき)」という聖域が残されている。神が来訪するとされ、祭祀が行われる神聖な場所だ。
久高島の地図はこちら
●人口/223人 ※2024年6月末時点
●面積/1.37㎢
● アクセス/那覇空港から車50分の安座真(あざま)港下車。安座真港からフェリー25分(高速船15分)の徳仁(とくじん)港下船
琉球王朝の支えにもなった、祈りの場
はるか遠く海の彼方、神々の住まう理想郷・ニライカナイからアマミキヨという神が降り立ち、琉球の国をつくった。沖縄に伝わる開闢神話において、アマミキヨが最初に降り立ったとされる久高島。ここではいまでも一年をとおして30近い独自の祭祀が行われ、多くの祈りが捧げられている。
そんな沖縄の始まりの地である神の島へお邪魔することに、たいそうな緊張を抱えながらフェリーから降り立つと、「こんにちは。よくきたねえ」と、島を案内してくれる“マサーさん”こと、西銘政秀(にしめまさひで)さん(79)。そのほがらかな笑顔に、思わずふにゃりと体がほぐれた。
「琉球国の時代、当時の国王は2年ごとに2回、最高神職の聞得(きこえ)大君は年に複数回もの頻度で、時には危険な目に遭いながらもこの島へ祈りにいらっしゃっていたんですよ」と、マサーさん。
首里城内には「東(あがり)のアザナ」という久高島が見える高台があり、日々のなかでも国王たちはそこから島に向けて遥拝していたという。信仰と政治が密接な関係にあった当時、琉球神道の聖地であるこの島は時の琉球王朝にとって精神的な支柱となっていたのだ。
木々や海が物語る神話の舞台へ
島では、人間の住まう建物はすべて南側の集落にある。北側は神域とされ、住居を建てることは許されない。神域に立ち入った瞬間、空気が変わった気がした。
クバ(ビロウ)が脇に茂る神域内の白い一本道をずっと進むと、北端の岬に突き当たる。アマミキヨが降り立ったとされる「ハビャーン(カベール岬)」だ。モンパノキなどの植物、むきだしの琉球石灰岩、白い砂浜、そして広大な海が青を重ねる。
アマミキヨは何もなかったところに石や木々を集めて国をつくり始めたという。いまもそのままの時が止まっているかのような情景だった。
国づくりを進めるなかで、アマミキヨは七つの御嶽をつくっていった。その一つがこの島にある。「フボー御嶽」だ。島に数ある御嶽のなかでもひと際重要な意味をもち、祭祀を主宰する神女(かみんちゅ)しか立ち入ることを許されない。もちろん私たちも入口のあたりまでしか近づけないが、鬱蒼(うっそう)と茂る木々に差し込む光の粒が、祈りの場の崇高さを物語っていた。
開闢神話とともに久高島が尊ばれている理由がもう一つ。五穀発祥伝説だ。ニライカナイから五穀の入った白い壺が流れつき、それが琉球の農耕の始まりとなったという。
その舞台の「イシキ浜」を歩いていると、マサーさんがつぶやいた。「民俗学的には、ニライカナイは黒潮が流れてくる方向を指し、黒潮に乗った海洋民族が五穀とともに流れ着いたのではないかといわれています。アマミキヨとは別に、ニライ大主・カナイ大主という重要な神がいますが、海洋民族がもとなのではないかな」
流れ着いた民族は水場の近くに住み、その跡地がのちの子孫による信仰の対象となっていったと考えられている。この島では神と人間はまったく別の存在ではない。地続きになっている。
神との距離が近く、生活の根底に信仰がある島。訪れる前は厳かで、近づいてはいけない存在のように思っていた。けれど、ここでは神々しさとやわらかさが溶け合っていた。
果実や花の甘やかな香りが漂い、徳仁港にはネコたちのあくびがちらほらと。道ばたのベンチでゆんたくしている島民は「8月マティーの時にまたきてね」とほほえんだ。島民の手によって大切に、大切に守られている原始の信仰と自然が、心をなめらかに、清らかにしてくれた。
住居のすぐそばにも聖なる場所があちこちに
祈りを重ねる人々の穏やかな表情に、また会いに来たくなる
●ガイドの申し込みは、「久高島ガイド友の会」のHP(https://kudakajimaguide.jimdofree.com/)から。
取材・文=『旅の手帖』編集部 撮影=大湾朝太郎
『旅の手帖』2025年6月号より