昭和100年寄稿 私の太平洋戦争体験記 厚木市 倉橋崇恭さん
1941年12月8日、日本はアメリカの真珠湾を攻撃、太平洋戦争が始まり、45年8月15日に終戦となりました。
戦争時分のことは、遠くて近い恐怖の思い出として、85歳になった今でも夢を見ます。
暮らしていたのは東京都西東京市で、家の近くに飛行機をはじめ戦車や爆弾などを生産する数多くの工場がありました。
終戦の年の春、自宅の近くに爆弾が投下されました。普段は庭の防空壕に避難するのですが、母親が「胸騒ぎがする」と、その日は母親と兄姉の5人で家の前の杉林に避難しました。防空壕に避難していれば、家族全員の命はありませんでした。
自宅は柱を残しただけで住めないので、父親の知人を頼り埼玉県寄居町に疎開しました。死ぬか生きるかの生活していた東京とは違って、荒川で子どもたちが川遊びをする姿には本当に驚きました。現地では食糧の調達に苦労し、学校に通っていた兄姉は「疎開っ子」と呼ばれ、いじめられたこともあったそうです。
46年に東京に戻りましたが、食糧難は続きました。父親が庭でサツマイモやトウモロコシを育て食いつないでいましたので、食べることには本当に苦労をしました。
戦争は二度と起きてはいけません。助け合いや話し合いで何事も解決できる社会であって欲しいと思います。