戦争の記憶 「横浜がない」 篠原北在住、佐藤納子(のりこ)さん
港北区在住の佐藤納子さん(88)は、70歳を過ぎてから戦争の体験談を伝える活動を始めた。
磯子区で生まれた佐藤さんは、姉と2人の弟の4人きょうだい。1944年7月、小学3年時に秦野市の寺へ集団疎開した。風呂を借りた先で芋や落花生をもらった温かな記憶もあるが、栄養失調等の影響で頭に大きなできものができ、8月には実家に帰ったという。
そこで経験したのが翌年5月29日の横浜大空襲。この日、佐藤さんは一人で神社のある山の中腹に設けられた防空壕へ避難した。聞こえるのは米軍機が飛来する音や、「ザザザザザッ」という爆撃の音。南無阿弥陀仏を唱える声や赤ちゃんが泣く声も耳に残る。
辺りが嘘のように静かになったころ、防空壕を出て高台から遠くを見ると、あったはずの「横浜がない」。一面に炎や煙が立つ光景に「戦争を強く意識した瞬間だった」と振り返る。
幸い自宅は無事。被害の大きかった地区に住む祖父母を迎えに行った両親からは、防火用水に顔を突っ込んで死んでいた人や、「熱い熱い」と叫ぶ人がいた話を聞いた。
通っていた小学校の校舎を覗くと、大勢の傷痍軍人が横たわっていた。「気の毒に。痛いだろうな。戦争さえなければ」
そして終戦の日。抜けるような青空が忘れられない。両親も世の中も静まりかえる中、皆でラジオを囲んだ。玉音放送。何を言っているのか分からなかったが、親から「もう怖くないよ」と声をかけられた。
それでも食糧難は深刻で、このころの疑問は「なんで食べ物がないの」。実家では植物を栽培していたが、立派に育った南瓜は盗まれ、母親が蒸かした芋も、目を離した隙に無くなった。
平和で、目標持てる世の中に
今、ニュースで世界の紛争に触れると涙が出るという佐藤さん。「戦争はいけない。人と人が争い傷つけ合うなんて。話し合って譲り合って仲良く暮らせないのか」
日常に平穏を感じつつも「日本だって、いつ何が起こるか」という思いを抱く。だからこそ、戦争の歴史を繰り返さないため、「伝える」ようになった。これまでコミュニティハウスや小学校等で講演してきた佐藤さん。話を聴いた児童から感想が届き、その全てに目を通す。
佐藤さんは元教諭で、市内小学校の校長も歴任した。当初は医者を目指し、後に親戚の勧めもあり教師を志した佐藤さん。常に夢や目標を抱く人生を送ってきた経験から、平和の中、一人ひとりが自由に目標を持てる世の中が続くことを強く願っている。