毛沢東の4人の妻たち 〜その哀れな最後 「愛と権力に翻弄される」
毛沢東
毛沢東は、中華人民共和国の建国者として、その名を歴史に刻んでいる。
その業績を評価する声も多い一方で、彼の施策が生んだ混乱や犠牲を批判する声も根強い。特に、彼が主導した「大躍進政策」や「文化大革命」は、膨大な人的被害と社会的混乱を招いたとして論争の的となっている。
毛沢東の人物像を語る上で重要なのは、彼が多面的な人間であったという事実である。革命家、政治家、思想家としての顔を持つ一方で、彼の私生活は波乱に満ちていた。
その人生には、数多くの女性たちも関わっていた。
毛沢東の「主治医」であった李志綏(り しすい)は、その回想録『毛沢東私人医生回忆录』で毛の私生活について詳細に述べている。
李によれば、毛は権力者としての側面を持つ一方で、非常に人間的な弱さや自己中心的な一面も持ち合わせていたという。
毛主席对于爱情的理解,不是传统意义上的忠诚,而是权力的延伸。他把女人当作权力的体现。
意訳 : 毛主席にとって愛情とは、伝統的な忠誠の意味ではなく、権力の延長線上にあるものであった。彼は女性を権力の象徴として捉えていた。
李志綏『毛沢東私人医生回忆录』より引用
今回は、毛沢東の妻たちについて解説する。
最初の妻・羅氏
毛沢東の最初の妻である羅氏(らし)との結婚は、彼自身の意思ではなく、家族が取り決めたものであった。
毛が14歳頃のときのことで、羅氏は4つ年上の18歳、当時の慣習に従った形式的な結婚にすぎなかった。
羅氏は毛沢東の家に迎えられたが、二人が実際に夫婦としての生活を送ることはなかったとされる。
羅氏は結婚後、2年ほどで病に倒れ、1910年に20歳で亡くなった。
そのため、彼女については記録も少なく、ほとんど知られていない。
第2の妻・楊開慧(よう かいけい)
楊開慧(よう かいけい)は、毛沢東の第二の妻である。
楊開慧は毛の教師であった楊昌済(よう しょうさい)の娘で、二人は1913年から1918年の間に知り合い、毛が楊家を頻繁に訪れる中で親交を深めた。
1920年、二人は結婚するが、この結婚は単なる私的な愛情の結びつきにとどまらなかった。楊開慧は毛の革命思想を理解し、共産党活動を支える良き相談相手でもあったのだ。
夫妻には3人の息子が生まれたが、家庭生活は順風満帆ではなかった。
2人目の息子が誕生した直後、毛の浮気が発覚し、夫妻の間には大きな溝を生まれた。それでも、楊開慧は夫を支え続け、革命活動にも積極的に参加した。
しかし、1930年、彼女は国民党政府により長沙の自宅で逮捕される。
国民党は彼女に対し「毛沢東との関係を断ち、共産党を非難しろ」と強要したが、楊開慧はこれを断固拒否した。
その結果、1930年11月14日、彼女は長沙郊外で銃殺されるという悲劇的な最期を遂げた。享年29。
彼女の死に対し、毛は「彼女の死は百身を持ったとしても贖えぬ」と嘆息したとされる。
しかし一方で、楊開慧がまだ生きていた1928年には、すでに当時17歳だった賀子珍(※後述)と結婚していた記録も残されており、この矛盾した行動は毛の複雑な人間性を浮き彫りにしていると言えるだろう。
第3の妻・賀子珍(が しちん)
賀子珍(が しちん)は、毛沢東の第三の妻である。
1928年、江西省井岡山で二人は出会った。当時、賀子珍は17歳で、共産党の活動に積極的に関与していた才色兼備の女性であった。その年、毛沢東との関係が深まり、事実上の結婚生活を始めたが、このとき毛沢東はまだ楊開慧と正式には離婚していなかった。
賀子珍は毛沢東の革命運動を支えながら、彼との間に6人の子供をもうけた。しかし、この6人のうち4人は戦争や混乱の中で行方不明となったり、早逝している。
その後、毛の浮気癖が原因で夫婦関係は次第に悪化していった。
特に毛が通訳の呉光偉(ご こうけい)と不倫関係になると、賀子珍の精神状態は次第に不安定となり、自殺未遂に及ぶことさえあったという。
1937年、毛は彼女を「治療」の名目でモスクワへ送り、事実上遠ざける決断を下した。ソ連での生活は孤独と困難に満ちており、彼女はそこで息子を出産するが、その子も生後間もなく亡くなっている。
1946年、賀子珍は中国へ帰国した。
しかし、すでに毛は後述する江青と結婚しており、賀子珍との関係は完全に終わっていた。
1959年の廬山会議で22年ぶりに毛と再会するが、それが二人が顔を合わせた最後の機会となった。
晩年は上海で軟禁状態に置かれながら過ごし、1984年に73歳でこの世を去った。
吳廣惠(ご こうけい)
呉広恵(ご こうけい)は妻ではないが、前述したように賀子珍との関係を崩壊させるきっかけとなった女性である。
呉広恵は北京大学を卒業した知識人であり、流暢な英語を操る翻訳者であった。
彼女はその美貌と知性で多くの人々を魅了しており、共産党内でも注目を浴びる存在だった。
毛は、彼女の知的な会話と洗練された態度に惹かれ、二人は急速に親密な関係となった。
1930年代後半、毛と呉広恵の関係は隠し通せないほど明白なものとなっていた。賀子珍はこの関係に対して激しい怒りを示し、何度も抗議を繰り返したとされる。
しかし、毛は彼女と正式に結婚することはなく、二人の関係は長続きしなかった。
呉広恵自身のその後の人生については、ほとんど記録が残されていないが、彼女は毛の周囲で消耗し、その後表舞台から姿を消したとされる。
第4の妻・江青(こうせい)
江青(こうせい)は、毛沢東の4番目の妻であり、最も政治的影響力を持った女性である。
江青は山東省で生まれ、本名を李雲鶴(り うんかく)といった。
上海で女優として活動し、演劇の才能で注目される一方、自由奔放な性格で知られていた。
1930年代、共産党の思想に惹かれた彼女は活動に加わり、延安で毛沢東と出会った。
二人は1938年に正式に結婚するが、当時の党幹部の中には、彼女の過去の経歴や性格を理由に反対する声も多くあった。それでも毛は江青を選び、彼女もまた毛を支えながら自らの地位を築き上げていった。
1966年に始まった文化大革命では、江青は毛の思想を広める中核的役割を担い、「四人組」のリーダー格として活躍した。
※四人組(よにんぐみ)とは、文化大革命において毛沢東を支持し、共産党内で権力を握った江青、張春橋、姚文元、王洪文の4人の政治集団を指す。
彼女は文化人や知識人を弾圧し、多くの反対派を排除した。
毛の主治医・李志綏(り しすい)は、江青と毛沢東の関係について次のように語っている。
毛主席对江青的情感,始终是一种复杂的交织,既有爱情,也有政治上的考量。江青通过毛的权力,获得了自己的影响力。
意訳 : 毛主席の江青への感情は、常に愛情と政治的配慮が絡み合った複雑なものであった。江青は毛沢東の権力を通じて、自身の影響力を手に入れた。
引用 : 『毛沢東私人医生回忆录』李志綏
毛沢東が1976年に死去すると、江青の権力基盤は急速に崩壊した。
彼女は「文化大革命の主導者」としての責任を問われ、「四人組」のメンバーとともに逮捕された。
1981年の裁判では「反革命活動」の罪により死刑判決を受けるが、その後、無期懲役に減刑された。
収監中の江青は、自身の行動を正当化しようと試みたものの、かつての栄光を取り戻すことはなかった。
その後、1991年5月14日、北京の病院で首を吊り自殺した。享年77。
終わりに
毛沢東の人生を通じて彼の妻たちは、ただの伴侶ではなく、時に革命の同志であり、時に彼の権力の象徴でもあった。
その人生は、愛情や家族という枠を超え、政治と歴史の舞台に引き上げられることとなった。
しかし、彼に選ばれた女性たちの多くが、過酷な運命に翻弄され、平穏な人生を送ることは叶わなかった。
参考 : 『毛沢東私人医生回忆录』他
文 / 草の実堂編集部