「やりがいある仕事だし、ここ以外では働けない。だから給与が低くても仕方ない」と思っていた私が転職を決めるまで
「快適な職場環境や良好な人間関係は給与とトレードオフ」と思っていませんか。
新卒で入社した会社や、その次に入社した会社になじめず「みんなができることが自分にはできない」と、落ち込んだ経験を持つ皿割子さん。その後ストレスなく働ける会社に出会えましたが、悩みは“給与”。
過去の経験から「快適に働けるだけでありがたい」と諦めてきた皿さんが、「もっと評価を求めても良いのかも」と転職を決めるまでを振り返ります。
「私は社会不適合者?」という葛藤を経て、仕事で認められるように
ずっとライターになりたかった。
しかし親からは「福利厚生や待遇が手厚い大手企業」を勧められ、最終的に新卒入社したのは広告代理店。配属されたのは希望のクリエイティブ職ではなく、営業部だった。
大手企業の子会社ということもあり福利厚生や給与なども充実していたが、前任の不祥事の後処理を任される中で適応障害を発症。休職を経て、わずか8カ月で退職することとなった。
心身ともにボロボロの状態で「ちゃんと働かなければ」という焦りから今度はメーカーの事務職に転職。「営業職がダメなら事務職」という安易な発想だった。
年収は下がるものの、歴史ある会社で福利厚生は充実しているし、業務もハードじゃない。「今度こそ」と思ったけれど、どうしても会社の雰囲気に溶け込むことができなかった。
その会社では「どれだけ周りと同じになれるか」がとても大事だった。全員同じお店で服を買っているのではないかと思うくらい同じような服装で出社し、同じようなヘアメイクで、同じ制服に着替えていく。
そんな中、ファッションが大好きで髪型やメイクをアイデンティティーだと捉えていた私は完全に“異物”だったのだ。
それでもどうにか馴染もうと、飲み会や休日の遊びなどにも積極的に参加したのだが、再び適応障害を発症し、結局4カ月で退職した。
適応障害は、一般的に「ある特定の事柄に対してのみ発症する」と言われているらしい。だとしたら私にとっての「ある特定の事柄」は、会社ではなく「社会そのもの」なのではないか? 私はそもそも社会というものに適応できない、社会不適合な人間なのではないだろうか。
そんなふうに思い出すと、みんなが当たり前にできている「働く」ということができない自分が、とてつもない欠陥品に思えた。
ふさぎこむ私に「学生時代のアルバイトは何年も順調に続いていたし、まずはアルバイトから再スタートしてみたら」とアドバイスをくれたのは、兄だった。
そうして始めたのがコールセンターのアルバイト。仕事内容はほとんどクレーム対応で、決して楽な仕事ではなかったけれど、髪色も服装も自由で、誰も周囲なんて気にしない。そんな環境が合っていた。
私は後頭部の半分を刈り上げ、髪をシルバーに染め、これまでにないくらい働くことが楽になった。
《画像:ハロウィンの日にはコスプレをしてクレーム対応をした。右端が私》
朝起きて会社に行き、仕事をして帰る。これまでどれだけ頑張ってもできなかったことがようやくできるようになり、気づけば私はカスタマーサポート部の責任者になっていた。
人良し、環境良し、やりがいあり。だけど……
社会で働くことへの恐怖心が薄れてくると、自分の本当の夢を思い出した。
そうだ、私はライターになりたかったのだ。
「今度こそ、夢のライターになるのだ」とやる気に溢れていた私は、コールセンターを辞めてライターのアルバイトを始めることにした。
ほとんどのライターの正社員募集は実務経験を求められるので、まずはアルバイトとしてライター経験を積み、将来的に正社員を目指そうと思ったのだ。居心地が良く、責任者というポジションにまで登り詰めたコールセンターのアルバイトだったが、辞めることに迷いはなかった。
そして半年がたった頃、編集プロダクションの正社員の求人情報を見つけた。仕事内容は制作物のディレクション、そしてライティング。これだ! と思い、すぐに応募した。
もちろん、「会社勤め」に対する恐怖心はすさまじかった。もう同じ失敗は繰り返したくない。だから私は一次面接の段階で、自分が二度にわたって適応障害になったことを正直に伝えることにした。
当日はスーツではなく、自分らしい個性的な服装で。自分を包み隠さずさらけ出した上で採用されたのなら、それは「ありのままの私」で良いということだと腹を括(くく)ったのだ。
クリエイティブ職を正社員で募集するケースはめずらしく、100人以上の応募があったらしい。そんな中アルバイトとしてしかライター経験がなく、離職歴ばかりが連なっている私を採用してくれたのは、「熱意だけは感じたから」だと後から聞いた。
憧れのクリエイティブ職。自分が初めて書いた記事が掲載された雑誌は今でも大切に保管している。「書くことで食べている」という事実だけで、これまでの苦い経験が全て報われるような気がした。
やりがいのある業務内容に加えて、有休が取りやすく、リモートワークも可能。服装は自由でみな思い思いの格好をしていて、人間関係も良好。
仕事のことはもちろん、プライベートの悩みもなんでも話せたし、それまでの会社では涙が出るほど嫌だった飲み会やバーベキューなどの社内イベントにも率先して参加するほど、私は会社のことが大好きになった。
一生かけてこの会社に恩返しをしよう。死ぬまでここで頑張ろうと思った。
そうして気づけば8年目の中堅社員になっていた。
これまで1年と続けられなかった会社勤めを8年も続けられるなんて!
だから、給与に満足できないことについては、仕方ないと諦めていたのだ。
好きな仕事ができていたら、給与は低くてもいい?
快適な職場環境、良好な人間関係、そしてやりがいのある仕事。こんなに恵まれていることってあるだろうか。
そう思う一方で、唯一満足できていないのが「給与」だった。それでいて、私は自分が「今より良い給与」を求めることに、ずっと引け目を感じ続けてきた。
私はこの会社だから毎日働くことができるのであって、例えば今より給与は良いけれど環境が異なる会社に転職したとしたとしたら、また昔みたいにすぐにダメになって、辞めてしまうに違いない。それに給与が低いということは、自分自身の能力が低いということだ。もっと頑張らなければ。
そう思うのに、同世代の友人たちが次々と出世し、結婚して家を建て、未来への貯蓄をしている中で、自分だけが人生の落伍者のような気がした。
この年齢になると、大学時代のように安い居酒屋に行くわけにもいかない。友人が提案してくれる美味しいと評判の良い店のメニュー表を見て、支払える価格かどうかをコソコソと確認するのが、惨めだった。
勤続8年目。32歳。
ずっとこのまま、仕事は楽しいけれど、経済的に不安定なまま生きていくのか? 自分の価値は本当にこれだけしかないのだろうか。
一生この会社で働くと誓ったはずなのに、年齢を重ねるにつれ、自分がずっとそこにいる未来が描けなくなっていた。
「環境」も「待遇」も両方求めてもいい
そんな風に悶々と悩んでいた頃、個人的に5年ほどの付き合いがある経営者の知り合いと、久しぶりに食事をすることに。今後のキャリアについて悩んでいることを話すと、「以前から何度か話していたけど、本当にうちの会社で働く気はない?」とありがたいオファーをもらった。
実は数年前から何度かそういった話題は出ていた。けれど、自分にはそれだけの能力や価値がないと思っていたし、そもそも今の会社に一生をかけて恩返しをすると決めていたので、真に受けていなかったのだ。
しかしその時は、後日改めて、社長と入社後上司になる予定の方がどれだけ私と一緒に働きたいか、私が入社した後のビジョンを時間をかけてしっかりと伝えてくれた。
仕事のジャンルは変わるもののクリエイティブ職採用で、提示された待遇も良い。
何より私が入社することでどんな風に会社が変わるか、どんな仕事ができるのか、それを語る2人の顔が生き生きとしていた。その光景は、自分は社会人として無価値だと思い込んでいた私にとって衝撃的だった。
もしかして、今なら他の会社でも働けるのかもしれない。
会社に馴染めない、社会不適合な私。私にとってやりがいがあって、快適に働ける会社なら、給与に満足できなくても仕方ない。そう言い聞かせてきた8年間。
でも、もしかしたら、やりがい・環境・待遇の全てを求めることは悪いことではないのかもしれないと、初めて思えた。
そして私は、8年働いてきた大好きな会社を辞める決意をした。
面倒見の良い上司は、私が次の会社でまた心を病まないかどうかをとても心配してくれた。関係がここで終わらないように、会社を辞めた後もご飯へ行こうと言ってくれた。取引先の方たちからも、とても温かな言葉をもらい、どれだけ自分が恵まれていたかを実感した。
素晴らしい環境を、自ら手放して本当に良かったのだろうか。あのままやりがいのある仕事を、大好きな人たちに囲まれて続けていく方が良かったのではないか。不安がないと言えば嘘になるし、また一から全てを始めるのは怖い。でも、以前の私とは違う。
そうして、この秋から新しい会社で働き始めた。
社長や上司は、私の武器はライティングスキルだけではなく「企画力とパッション」だと言い、入社してまだ2週間と経たないうちに客先で新しい企画を熱い想いと共にプレゼンすることになった。そしてなんと、私の企画が採用され、大きなプロジェクトが動き始めた。
まだこの先のことは分からない。「『採用して良かった』と思ってもらえるように頑張らなければ」というプレッシャーで胃が痛くなることもある。
それでも、今の私がこの会社でどれだけ仕事を頑張れるのか、その未来に想いを馳せると、心の底からワクワクするのだ。
編集:はてな編集部
著者:皿 割子(Sara Wariko)
1992年、福井県生まれ。会社員として働きながらファッションと人生のことを綴るライター・イラストレーター。「35歳までに本を出版する」という夢を掲げ、その一歩として毎週エッセイ『ファッション×パッション』を連載中。
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