設立から40年で破産…。伝説の『ガイナックス』が持っていた特別な存在感とは何だったのか
SBSラジオ「TOROアニメーション総研」のイチオシコーナー、人気アニメ評論家の藤津さんが語る『藤津亮太のアニメラボ』。今回はガイナックス社についてお話を伺いました。※以下語り、藤津亮太さん
才能豊かなアマチュアたちから始まった伝説の「ガイナックス」
ガイナックスが設立から40年目で破産という形でなくなるというニュースを受け、「ガイナックス」という名前が持っていた特別な存在感がどこにあったのか、お話できればと思います。
ガイナックスはの母体となった組織はふたつあります。ひとつは大阪で1981年に開かれた第20回日本SF大会をきっかけに結成されたアマチュア映像制作グループ「DAICON FILM」。もうひとつはSFグッズを販売するショップで「ゼネラルプロダクツ」。このふたつの組織には共通して関わっている人も多くおり、大阪芸術大学の学生もいました。
こうして大阪を拠点に活動していた人たちが、上京し、1984年に東京で作られたアニメ制作会社がガイナックスです。ガイナックスという名前は、島根県から鳥取県にかけて使われる「大きい」を意味する方言「がいな」に由来します。
これと前後する1983年末に、オリジナルビデオアニメ(OVA。ビデオ販売を目的に作られたアニメ)が登場します。そこで大阪の彼らも企画を、映像事業を始めたばかりのバンダイに持ち込みました。
最初に持ち込んだ企画は、『機動戦士ガンダム』から派生し、プラモデルで人気を集めていたMSV(モビルスーツバリエーション)のOVA化でした。しかし、この企画は通らず、改めて提出した企画が後の『王立宇宙軍 オネアミスの翼』となる企画でした。この映画を作るために設立されたのがガイナックスだったのです。
ただし、こちらもそんなに素直に企画が通ったわけではありませんでした。最初は、プリプロダクションの予算だけしか獲得できず、最終的に配給会社が決まるまで、小刻みにしか予算が通らなかったそうです。
とはいえ最終的に、数億円という制作予算が『王立宇宙軍 オネアミスの翼』に投じられることになりました。考えてみてください。プロとしてはほとんど実績のないアマチュアフィルムメーカーが、数億円の予算で、いきなりプロの商業映画、アニメーション映画を作ることになったわけです。
これがいかに画期的なことなのか。アマチュアだけどプロはだしの仕事をしていた人たちが、大手のバンダイから数億円の予算を引き出して映画を作った。この時点で既に伝説、神話なんです。
時代の流れで言うと、1960年前後に生まれた人たちは小さい頃からアニメや特撮を見てきており、雑誌やテレビで紹介される情報も増えていく時代とともに成長してきた。その世代が、プロとして活躍を始めたのが1980年代初頭から中頃にかけて。ガイナックスが設立された1984年には、映画『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』が公開されていますが、この映画の中核となったスタッフも、20代でガイナックスのメンバーと同世代でした。
1977年から始まったアニメブームの中、ファンがそのまま作り手に回り、ファンと共犯・共感関係で結ばれる。そういう特別なことが1980年代半ばごろに起きたんです。この特別な出来事の象徴ともいえるのが、ガイナックスという会社だったのです。
『王立宇宙軍 オネアミスの翼』はそんなにヒットしなかったのですが、今見てもすごい力作でカルト的に人気を得ました。ガイナックスは本来はこの1本で解散するはずが、やはり会社を存続させた方がいいということになり、その後も『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』『新世紀エヴァンゲリオン』などを手掛けていくことになったのです。そんな誕生そのものが伝説だったガイナックスが、ついに会社としてなくなってしまうというのは、非常に残念なニュースではあります。