中年の異常な執念、あるいは私は如何にして大腸内視鏡検査を受けるようになったか
夕焼けの赤色ではない
おれは今年46歳になる。おれは今まで大腸内視鏡検査を受けたことがない。それどころか胃カメラを飲んだこともない。バリウムを飲んだことは一度だけある。
そんなおれが大腸内視鏡検査を受けることになった。そのことについて書く。
これを読んでいるビジネス・パーソンはたぶん意識が高い。意識が高くなくとも、レベルの高い企業に勤めている。毎年、健康診断などを受けているだろう。
いっぽうでおれは社会の底辺の零細企業勤めだ。零細企業だとどうなる? 健康診断なんてない。健康保険のなにかがあるかもしれないが、そんなものは知らずに生きてきた。おれはおれの健康に関する診断を、精神科で年に一度の血液検査を受けるだけですませてきた。
もちろん、人間40歳を過ぎれば「人間ドック」という言葉もよぎる。とはいえ、おれはペットボトルの焼酎を毎日飲むような人間だし、先もない精神障害者だ。健康なんてどうでもいい。早く死ねるならそれが救いだ、そんなふうに思っていた。
そんなおれが大腸内視鏡検査を? なぜ? 理由は単純である。便に血が混じっていた。混じっていたというか、血まみれだった。べつに痛みはなかった。痛みがあるならまだわかる。痛みがないのがわからない。夕焼けのように美しくもない、医療費がともなう赤だった。
いや、そんなものは見過ごせばいいのでは? そういう声もあるだろう。血便。おおざっぱに調べれば、それが痔なのか大腸がんなのかという話になる。実は過去にも同じような症状が出たことがあったが、そのときはスルーして、スルーできた。だが、今回はちょっと強いように思う。それになにか、このところ便が細切れのような気もする。
おれが大腸がんから連想したのは、まず人工肛門だった。人工肛門を使用している人やその家族には悪いが、「人工肛門は嫌だな」と思った。病気を望む人間などいないだろうが、具体的な形としてイメージされた。
むろん、おれはいろいろ検索した。AIにも聞いてみた。AIは「鮮やかな赤」は痔である可能性が高いと言ってきた。30~50代の座り仕事の酒飲みは痔であることが多いと。だが、もちろんAIは大腸内視鏡検査を受けろと言ってきた。
「内視鏡、怖いと思っているやろ? でも最近のやつ、麻酔つきでやればまじで夢の国行ってる間に終わるから」。
おれは夢の国に行くことにした。
でも、治ったような気がする症候群
おれは、会社の近くにある消化器クリニックを調べた。なにやら新しい検査機器をアピールしている。OLYMPUSの大腸ビデオスコープCF-XZ1200IとPCF-H290ZIがおれの尻に突っ込まれることになる。
「大腸内視鏡検査はこんな方におすすめです」とあった。おれに当てはまるのは以下の項目であった。
・便に血が混ざっている方
・便通異常がある方(便秘、下痢、便が細い)
・血縁者に大腸がんがいる方
・40歳以上の方で大腸内視鏡検査を受けたことがない方
……血縁者に大腸がん。これはこの間の話であるが、人工透析をやったりやめたりすぐ死にそうな父が大腸がんになった。手術をすることになり、いよいよ死ぬかと思ったが死ななかった。がんのいない家系だと思っていたが、母系の方にも現れてそういうものかと思っている。
いきなりは検査の予約はできない。前診察というものがある。Webから前診察を予約した。いろいろ都合があって、前診断まで2週間くらい間があいた。
その間、なにが起こったのか。症状が、おさまったのだ。血が、出ない。ひょっとして、治ったのではないか。やはり、一時的な痔だったのではないか。人生初のボラギノールが効いたのではないか。
……というのを正常性バイアスというのだろうか。いうのだろう。それを客観視するくらいの意識はある。一度の出血でも、大腸がん、潰瘍性大腸炎、ポリープの可能性はある。AIもそう言っている。行け、行け、病院に行け、と。
それが、AIが人間に対してとる正解なのだろう。というか、べつにAIでなくともそう言うのでは? 40代の人間がなんにもなしにも大腸内視鏡検査を受ける。それは健康管理としてふつうなのではないか。この歳になれば、みんなカメラを飲んだり突っ込まれたりしている。それがふつう。
ふつうなんだ、それが。なあ、おれのように健康診断を避けているやつはいないか? でも、ネットを検索すれば出てくるだろう。健康診断は年に一度がマストだと。そうに違いない。おれのような人間がカメラを腸に突っ込もうというのだ、おまえも突っ込め。
ちなみに、予約サイトで「胃カメラも同時に行う」みたいなチェック項目があった。おれはチェックを入れた。OLYMPUSの上部消化管汎用ビデオスコープGIF-XZ1200、GIF-H290Zと経鼻内視鏡GIF-1200Nがおれの喉に突っ込まれる。
「胃カメラ検査はこんな方におすすめです」という項目もあった。
・アルコールをよく飲む(すぐに赤くなる)方
・40歳以上の方で胃内視鏡検査を受けたことがない方
おすすめだろうか?
金はかかる
今回、おれは個人で病院に予約を入れた。たとえばおれの住む横浜市にもがん検診のサービスがある。
サービス? まあいい、無料や低額でいろいろと受けられる。そんなはがきが、前検査の日の前にきた。きて、どうしようかと思った。だが、おれはそのはがきを無視することにした。おれはもう大腸内視鏡検査と胃カメラに向かって突き進んでいるのだ。ここでブレーキをかけたら決意が鈍る。
が、個人で検査を受ければ金がかかる。それは間違いない。大腸内視鏡検査で最大18,000円前後、胃内視鏡で最大15,000円前後かかる。合わせて33,000円だ。それだけの金があれば何に使える? 熱海に温泉旅行? それとも1週間か2週間分の馬券代?
しかし、それで安心を買えるのだ。安いものではないか。いや、安くはない。しかも「安心を買える」という前提もおかしい。なにかが発見されて、さらなる医療費の沼にはまっていく可能性もある。正直言って、おれは大卒新入社員の平均ほども給料をもらっていない。きびしくないといえば嘘になる。とはいえ、「新潟のマイルはエピファネイア産駒や」といって馬券を溶かすよりは……マシな使い道なのかもしれない。
検査代を馬券で稼ぐという道もある。ないとは言わせない。べつの病気か。
また、その病院の「横浜市がん検診」の項目を見てみると、胃内視鏡は50歳以上だし、大腸がんの検査は便潜血検査のみだった。おれは、金を出して、胃カメラを飲み、大腸内視鏡を突っ込まれる。……胃カメラは「飲む」なのに、大腸内視鏡は「突っ込まれる」なのか。胃カメラを「飲まされる」? どうでもいい。
好奇心がないといえば嘘になる
ここまでおれは、「必要に迫られて」、「恐怖心から」ということを強調してきた。が、好奇心がないといえば嘘になる。一生に一度くらい胃カメラというものを飲んでみようか。大腸の中を覗かれるというのはどういうことなのか?
病院や検査が怖い、そんな気持ちと、好奇心の間で揺れ動くところはあった。好奇心は検査に向けて後押しする側に働いた。
なにせ、検査というものは、「自分を知る」ことだからだ。おれは自分のことを知るのは嫌いじゃない。性格判断ゲーム、おみくじ、昔は学校の試験(勉強は嫌い)、そんなものが好きだ。そんな欲望も満たせる。悪くない。
前診察
悪くない気持ちでおれは前診察に行った。クリニックのサイトから落としたPDFの問診票に書き込み、予約の15分前に行った。クリニックは意外と広く、きれいだった。そして、混んでいた。混んでいるのは悪くない。悪いクリニックに客は来ない。
予約時刻が30分過ぎて、診察室に呼ばれた。サイトに載っていた医師がいた。いまどきは、全部わかっている。おれの胃と腸のなか以外はすべて。
「内視鏡検査ですか。ああ、下血あったのですね」
「ええ、あの、まあ、予約を申し込んだときは、ちょっとひどかったのですが、ここのところは、あまり……」
「(おくすり手帳を見ながら)、お薬をお飲みですね、ラツーダ、レキソタン……」
「あ、双極性障害です」
というと、医師は「双極性障害」と打ち込んだ。あまり内臓系の話と関係ないと思っていたが、やはり薬の影響など関係する場合もあるのだろう。
その後、父の大腸がんの話を少しして、なにやら銀色のアルミのパックを取り出した。
「当日、これを、飲んでもらいます。その前に、4日前から食事制限とお薬を飲んでもらいます」
……来た。たぶんこれがあると思っていた。いや、あるに違いない。ないわけがない。おれは昔、人生で唯一の人間ドックに行ったとき、見たことがある。待合いの椅子に座って、大量の液体を飲んでいる男たちを。
しかし、4日前? その晩から便通をよくするビーマス(一般名:カサンスラノール, ジオクチルソジウムスルホサクシネート)を1回6錠飲む。腸管内の泡を消す、ガスコン(一般名:ジメチコン)も飲む。
泡についてはよくわからない。ただ、おれは便通のよいほうだ。一日に3、4回は行く。とはいえ、そんなものではどうしようもないほど出さなくてはならない。
前日の夜はピコスルファートナトリウム内用液を飲む。これもやはり「腸管内容物の排除」を目的とした薬だ。そんなものを夜に飲んで眠れるのだろうか。
で、本番は、やはり当日だ。モビプレップの登場だ。
よくわからないが、最初から「脱水に注意が必要な方」用のチラシを渡された。モビプレップを2杯、水またはお茶を1杯。これを繰り返す。やがて便が透明の黄色い液体になる。おれの腸はかぎりなく美しくなる。そのような説明を受けた。
食事のことなども、説明を受けた。受けたあと、肝炎だかなんだかの血液検査が必要だということで、採血された。「採血された」と書いたが、おれのなかでは「注射なんて聞いてねえよ!」とちょっとパニックになった。
血を採られながら、「検査当日はピアスを外してきてください」と言われた。耳たぶのピアスは家に帰ったら外しているが、残りの2つはストレートのバーベルで、四六時中つけっぱなしだ。外すとつけるのが面倒くさい。なぜ腸にCF-XZ1200IとPCF-H290ZIを突っ込むのに、ピアスを外さなければならないのか。この世の裏側には、なにか理由がある。
頭の中は検査でいっぱい
ここまで読んできて、「この先、検査と結果の話が出てくるのだろうか」と思ったか? それは書けない。なぜならば、検査は一ヶ月先だからだ。
しかし、おれの頭の中は検査でいっぱいだ。検査というよりも、4日前からの食事制限と、当日のモビプレップがうまくいくかどうかだ。なにを食べていいのか。もちろんチラシはもらっているし、口頭で説明も受けた。ネットでもたくさん情報はある。素うどん、そうめん、フォー、餅。
だめなものといえば、毎日おれが食べているものだ。キャベツ、モヤシ、きのこ類……。おれは毎日そんなものを電子レンジで加熱して晩飯にしている。夜、炭水化物は摂らない。健康的だと思っている。それが、どういうことか、禁忌の食事になってしまう。
おれはいったい、なにを食べようか。レトルトのおかゆと、鶏のササミを蒸したものか。出社日が2日ひっかかるが、昼食はどうすればいいのか。朝、うどんを茹でて、持っていくのか……?
このごろ、シャワーを浴びていてもそのことばかり考えてしまう。
これが、40代の人間が通ってきた儀式なのか。儀式とすれば、食事制限も斎(ものいみ)か。おれはこれから逃げてきたのか。
現実逃避で命が助かったという話は聞いたことがない。トイレットペーパーが「おまえはもう若くない」と血文字で言ってきた。おれはこれでも命に執着しているのだろうか。検査結果によっては、それにもっと直面することになるかもしれない。
あなたはどうだろうか。もしも、おれのように「これ」を避けてきたのであれば、「これ」について考えてみるのもいいだろう。おれはそうした。
つづく。
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【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :Martha Dominguez de Gouveia