復活した名店・大船『かんのん(観音食堂)』へ。あの紫色の暖簾を再びくぐったら
もう3年も前の話だが、我々大衆酒場ファンにとって大きな出来事が起こった。神奈川県大船駅の前にある老舗酒場「観音食堂」が焼失してしまったのだ。私も以前訪れていて、その外観から内観、出される絶品料理に一気にファンになったのだ。後継者問題や再開発で酒場が無くなるのは残念だが、火災などの不本意で酒場が無くなるのが最も無念だ。実は私自身も、その“火難”に何度か遭遇している。18歳の時に実家の隣にある親戚の家が火事になり、その数年後に働いていたバイト先の寿司屋も火事で全焼した。寿司屋は特に記憶に残っていて、ランチ用の寿司弁当に天ぷらを入れていたのだが、その天ぷら油から出火。第一発見者は私で、天ぷら鍋からほんの一瞬で天井まで火が上り、119番に連絡をしたが消防車が到着するころには二階建ての建物すべてに火が回っていた。幸い人的被害はなかったが、消火後の黒焦げになったバイト先を呆然と眺めていたのを鮮明に憶えている。第一発見者と第一通報者である私は、後日消防署に行き、担当職員と一連の出来事の調書を書いた。それが終わって帰るときに、担当職員から「火事って本当に怖いものだから気を付けてね」と言われ缶コーヒーをくれた。それを飲みながら駅まで歩いているときに、ちょっと涙が出た。いつもそこにあった物、時に人までも。そして、記憶までも消し去る……世の中にはいろいろな不幸があるが、私は火災が一番の不幸だと思っている。それでも、不幸だけではない。その後に奇跡だって起こる。「観音食堂」の火災から約2年後の2023年5月。SNSを中心に“観音食堂・再開”の文字があふれたのだ! 火災からの大復活……さまざまな人の応援と思いもあったのだろう、待ちわびたその時は不幸を一瞬で幸せに変えてみせたはず。すぐにでも新・観音食堂へ訪れてみたかったが、さすがは超人気店。かなり混雑している様子だったので、しばらく待ってから行くことにした。──で、さらにそこから約2年。「待ち過ぎだろ」と言われそうだが……じっくりとその時を待っていた、ということにしてください。
1時間半以上かけてやってきた大船駅。東口を降りれば、目の前にその姿が現れるほどの駅近だ。一体、どんな姿になったのか……。久しぶりにちょっと緊張しながら、東口を出ると……。
で、で、で、出たああああつ!
すぐに分かった、「観音食堂」だ! いやあ、思っていたより雰囲気は残っている。なんだか、だいぶ前に別れた彼女に会うような感覚だ。
前のモルタル長屋風ではなく、モダンなウッディー外壁にはなったものの、芸術館通り側にはちゃんと魚屋『魚廣』があり、商店街側には中央に店の出入り口がある。
前と同じつくりだ。
きゃっ、紫色の暖簾(のれん)も健在! これは……早く中へ入ってみたい。が、意外と中はファミレスみたいになっていたらどうしよう……そんな期待と不安を抱えながら、ついにその暖簾を割った。
あっ、あっ、あっ──! 入って目の前にはレジ、左手にはテーブル席。右手には同じくテーブルと奥に小上がりがある。前は右手がすぐに座敷になっていたこと以外はほぼ同じ間取り。
火事になった親戚の家は、建て替えたときは内装をガラッと変えたが……なんでしょう、なんとも言えない“うれしさ”というのが込み上げてくる。私でもこんな気持ちになるのだから、常連客はもっただろう。
「おお、ここはこうなったんだ」
「ああ、前はあそこに座ったな」
前は座敷だったところのちょうど中央のテーブル席に座るが、どうしたって周りをキョロキョロ眺めてしまう。いい加減、首が捻挫してしまう前に、酒を頼まなければ。
真新しいテーブルに瓶ビールとグラスが乗り、その背景にも新しい内観がある。ついに訪れたこの時に、目一杯の祝杯を。
ごぐりっ……ごぐりっ……ごぐりっ……、か・ん・の・ん! か・ん・の・ん! 心の中で“かんのんコール”が繰り返される。本当の、これが本当の祝い酒だ。
さあ、続いて祝い料理だ。前に訪れた時と同じものを頼んでみようかと思ったが……いや、ここは新たな気持ちで、新たなものをいただこう。
まずは「酢の物」から。名前だけだと地味だが、これがまた豪華。きゅうりとワカメを土台に、ホッキ、アオヤギ、クラゲ、タコ……なんとカニまである宝石箱。
クニクニとした貝、コリシコのクラゲやタコ。極めつけはプリプリのカニで食感が楽しい。嫌味のない酢の効き具合も最高だ。
続いて「ホタテフライ」がやってきた。なんて上品な焼き色なのでしょう! まさしくキツネ……いや、キツネの赤ちゃん色をした衣からはわずかにホタテの香り。
「カリッ!」と同時に「うまいッ!」が口から飛び出す。口に入れた瞬間の衣の食感、そして中から肉厚のホタテの濃厚な旨味……私の“舌史上”最高に幸せだ。
店の左手奥のテーブル席には、常連旦那衆がにぎやかに飲(や)っている。「あー、あの一角(いっかく)は常連用なんだろうなあ」と、前に来た時と同じ光景に、図らずも同じ想像を抱いていた。うん、“変わってない”のだろう。
「おまたせしました~」
「うわあ!」
そんな様子を背景に「刺身5点盛り」がやってきた。驚くのも無理はない、なんと美しい刺身なのだろうか。
マグロは中トロのコッテリした旨味、赤身はネットリとこちらも濃厚。分厚いハマチはサクサクとした食感が楽しく、ツルシコのイカは醤油をつけていても甘いことが分かる。フライと被ったホタテだが、別物と言っていいほどミルキィな一品。
ガッチリとしたフォルムのボタンエビは、口に入れるとブリンッと「生きてるのか!?」というほどの弾力。トロリとしたエビの旨味が、もう言うことない。新鮮な海の幸が、「観音食堂」の復活を祝福するように輝いている。
やはり、うまい。特に海鮮。それは無意識にすべての料理が海鮮になっていることが証拠。
奥の厨房からの調理音が耳朶(じだ)をかすめ、そこから女将さんたちが忙しそうに出入りしている。会計をする常連客と冗談を話し、時折見せるやさしい笑顔がいい。そんな当たり前が、なんと心地よいのだろう。
火災は“記憶を消し去る”なんてはいったが、これだけは少し違うのかもしれない。
記憶だけはこの場所で永久に生き続けている。この酒場だけではなく、すべての酒場がずっとあり続けてほしいと願いつつ……もう一度、復活を静かに乾杯する。
かんのん (観音食堂)
住所: 神奈川県鎌倉市大船1-9-8
TEL: 0467-45-1848
営業時間: 11:30~21:30(土・日は~21:00)
定休日: 水
※文章や写真は著者が取材をした当時の内容ですので、最新の情報とは異なる可能性があります。
取材・文・撮影=味論(酒場ナビ)
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