小惑星探査機「はやぶさ」奇跡の地球帰還はなぜ実現したのか?【新プロジェクトX 挑戦者たち】
地球から3億キロ以上離れた小惑星からサンプルを持ち帰り、人類の歴史に新たな一歩を刻んだ小惑星探査機「はやぶさ」。なぜ、宇宙の彼方で通信が途絶えた探査機を地球帰還へと導くことができたのか? 20年にわたるプロジェクトの歴史を描いたノンフィクション『新プロジェクトX 挑戦者たち 4』の第一章「小惑星探査機はやぶさ 奇跡の地球帰還」より、冒頭を特別公開。
小惑星探査機はやぶさ――奇跡の地球帰還
世界初のミッション
3億キロの彼方で起こした奇跡
神奈川県相模原市にある博物館。スマホを片手に、夢中で走り出す少年がいた。
「はやぶさが大好きなんで、写真を撮っているんです。サンプラーホーンやイオンエンジン、低中高利得アンテナとか……」
お目当ては、人類初の「偉業」を成し遂げた「はやぶさ」の実物大模型。日本の宇宙開発の命運を懸けた小惑星探査機はやぶさが、3億キロの彼方にある小惑星イトカワで地表の砂を採取し、7年の長旅を経て帰還したのは2010(平成22)年6月13日。JAXA(宇宙航空研究開発機構)の宇宙科学研究所がある相模原市は、世界の宇宙開発の歴史に刻まれたこの日を「はやぶさの日」に制定した。毎年6月に相模原市立博物館で催されるはやぶさ関連のイベントには、多くの宇宙航空ファンが足を運ぶ。そして、少年少女たちは広大な宇宙に思いを馳せ、憧れる未来の姿を誇らしげに口にする。
「僕、宇宙研究者になるのが夢で、いろいろ勉強しているところです」(中1・男子)
「大人になったらJAXAに入って、川口教授とか國中教授みたいに何があっても諦めないプロジェクトマネージャーになりたい」(小5・男子)
はやぶさが打ち上げられたのは2003(平成15)年5月9日。小惑星からサンプル(試料)を持ち帰るプロジェクトは、リーダーとなる川口淳一郎の「あまのじゃく」な気性が仕掛けたNASA(アメリカ航空宇宙局)への挑戦状だった。
無謀とも揶揄された困難なミッションを成功させるカギは、使える見通しも立っていなかったイオンエンジン。開発の重責を担った國中均は、「ごくつぶし」と陰でささやかれながらも研究に明け暮れた。
そして、宇宙へ。未知への挑戦は、いばらの道のりだった。想像を絶する状況下で続出するトラブルに探査機は深刻なダメージを負い、一時は通信が途絶えた。さらに、頼みのエンジンが限界に達しようとしたその時、プロジェクトは最後の一手となる「秘策」を繰り出す。絶体絶命の窮地を乗り越えて帰還したはやぶさは、機体が燃え尽きる壮絶な最期と引き換えに、星のかけらが入ったカプセルを地球に届けた──。
米ソの宇宙開発競争の後塵を拝し、長らく「周回遅れ」と言われ続けてきた日本の深宇宙探査の技術は、はやぶさのサンプルリターンによって宇宙を探る人類の歴史に新たな一歩を刻んだ。
これは、日本の未来を背負った科学者たちが、度重なる絶望の淵から這い上がり、3億キロの彼方で起こした奇跡の物語である。
周回遅れの日本の宇宙技術
日本初の宇宙探査機「さきがけ」と「すいせい」が無人の小型ロケットで打ち上げられたのは1985(昭和60)年。皆が打ち上げの成功に沸き立つ中、一人、笑顔になりきれない男がいた。JAXAの前身となる機関の一つ、宇宙科学研究所の川口淳一郎である。当時、助手だった川口は、日本とアメリカとの「差」が悔しかった。
「まったくレベルが違う、たとえるなら幼稚園児と大学生みたいなものでした」
NASAがスペースシャトル「コロンビア号」を打ち上げたのは1981(昭和56)年。有人のシャトルで宇宙と地球とを飛行機のように往復する。航空宇宙技術の最先端は、日本のはるかに先を突き進んでいた。川口は、日本が存在感を示す術を必死で考えた。
「自分たちが何を目指すべきなのか? 自問せざるを得なかった。米ソと同じ道をたどるのは一番わかりやすい方法だけれども、私としては潔しとしなかった。言い方を換えれば、他国がやっていない宇宙開発にチャレンジすることが重要で、宇宙研(宇宙科学研究所)の先輩や同僚たちと議論を重ねても、狙うとしたら小天体、小惑星しかないというのが一致した答えでした」
地球や火星のような大きな天体は重力によって内部で熱が発生し、熱変成という作用で物質が変化する。一方、微少な重力の小さな天体では熱変成が起きず、太陽系ができた46億年前の物質が変化しないまま残っている可能性がある。ゆえに、小惑星は「太陽系の化石」とも言われ、サイエンスの分野では小惑星探査が地球の誕生や生命の起源の研究を前進させる大きな手掛かりになると期待されていた。
1985年、川口は「小惑星サンプルリターン小研究会」の発足に加わり、翌年にはサンプルリターンの工学的な可能性を示す論文も書いた。
「実際にはすぐに着手はできませんから、ある種の夢ですよね。ただ、輸送手段や探査機の飛ばし方をいろいろ計算して、声を上げるということはしていたんです」
90年代に入ると、川口はNASAに合同勉強会を持ちかけ、未来の科学ミッションについてプレゼンをした。それは、温めていた「小惑星ランデブー」の計画だった。
NASAへの挑戦状
小惑星とは、長さが数十メートルから数百キロの小さな天体を指し、その多くは火星の公転軌道と木星の公転軌道の間にあるメインベルトと呼ばれる一帯に散らばっている。他方で、太陽のまわりを楕円軌道で周回し、一定の周期で地球に近づく「地球近傍小惑星」も数多く観測されている。
小惑星ランデブーは、目標に定めた地球近傍小惑星と同じ軌道に探査機を飛行させ、速度を合わせて接近してから、映像や電波で観測をするミッションである。ただし、小惑星では重力が小さいため探査機のコントロールが難しい。川口は「技術を一緒に開発しよう」とNASAの研究者たちに提案した。
しかし、8回目の勉強会で予想だにしなかった言葉を浴びせられる。
「小惑星ランデブーはNASAだけでやる」
アイデアが取られたと、川口は思った。
「衝撃的ですよね。勉強会が発足した後にNASAはディスカバリー計画というプログラムを立ち上げて、その第一号のミッションが小惑星ランデブーだと告げられたわけですから」
失望感は大きかった。NASAは組織の規模も予算も日本の宇宙科学研究所の10倍以上である。単独でやられても仕方がないという気持ちも抱いだいた。だが、川口も黙ってはいなかった。NASAの研究者たちを前に、啖呵を切った。
「それなら、われわれはサンプルリターンをやります」
小惑星に着陸して砂を採取し、地球に持ち帰る。論文を書いたとはいえ、サンプルリターンがランデブーよりもはるかに難易度の高い計画であることは、川口自身が誰よりも承知していた。
「背伸びというか、悔しまぎれのハッタリみたいなものでしたよね。NASAがやると決めたランデブーを、そのまま後追いでやってもつまらないじゃないかと。私の気性が『あまのじゃく』ですから」
啖呵を切られたNASAの面々は、日本にできるはずがないと思っていた。NASA・ジョンソン宇宙センターの科学者、マイケル・ゾレンスキー博士は述べる。
「世界中の博物館には4万個以上の隕石が保管されています。それらがどこから来たのかを理解する上で、小惑星や彗星からサンプルを持ち帰ることは非常に重要なミッションであることはわかっていました。しかし、当時の日本の惑星探査プログラムは、NASAと比べるとまだ低いレベルでした。サンプルリターンは初めての挑戦であり、多くの人たちは成功しないだろうと予測したと思います」
筋金入りの「あまのじゃく」
人と同じことはしたくない川口。学生を指導するときに、「本を読むな」と言うこともある。本に書いてある「過去」とは違うことを考えれば、否応でもアイデンティティを探すことになり、自分が何をすべきかという課題に行き着くからだと話す。
その「あまのじゃく」な性格は筋金入りだった。生まれ育ったのは青森県弘前市。中学時代の化学実験では決められた手順で行うのを嫌い、独自のやり方をして危険な目にも遭った。高校時代の体育の授業でも周囲をざわつかせた。体操の種目から一つを選び、2か月後に実技テストをすると教師から告げられると、川口は誰もが避けた吊り輪を選んだ。
同級生だった櫻田靖は、こう述べる。
「みんながやらないことを自分が究めてみたいという気持ちでしょうね。それが彼の『あまのじゃく』なところなわけですが」
高校時代の川口は放送部員だった。機材が壊れて放送ができなくなった時、川口は一人で配線を全部バラし、一つ一つの部品をチェックしながら4時間かけて完璧に直したこともあったという。得意な科目は数学。その川口が、吊り輪のテストのために体操部に入り、毎日練習に没頭して技術を体得したと櫻田は話す。
「卒業後、東大ではなく京大に進んだのも川口らしいと思いました。大学生の時、彼は京都から弘前まで自転車で帰って来たこともあるんです。人がやらないことに挑戦して、やると決めたら最後までやり抜く。たいへんな『じょっぱり』ですよ」
強情っ張ぱりを縮めた「じょっぱり」という津軽の方言には、「諦めない」「ねばり強い」という意味も込められている。
NASAに啖呵を切った川口は、日本に帰るとメンバーを集めた。宇宙研の中に小惑星サンプルリターン計画を具体化するワーキンググループがつくられたのは1993(平成5)年。日本ではバブル経済が崩壊し、金がかかる宇宙開発への風当たりも厳しくなり始めていたが、川口は諦めず、ねばり強く、計画の検討を進めた。
「力ずくならできるんです。探査機に強力な化学エンジンと大量の燃料を積んで、大きなロケットで打ち上げれば、理屈の上では小惑星にたどり着ける。しかし、われわれはNASAとは制約条件が異なります。そんなに巨大な輸送手段も持っていませんでした。工学的なチャレンジを随所に組み込まなければならなかった」
前途は多難だった。この時点では、はやぶさの主力推進装置となるイオンエンジンも、まだ計画には書き込まれていなかった。
花形ではなかった電気推進研究
サンプル採取のターゲットとなる地球近傍小惑星の候補も検討が進められた。地球の近くを通るとはいえ、直線ではなく太陽を周回しながら目的地を目指すため、往復するには少なくとも4年はかかる。
一番の難題は主推進機関(メインエンジン)だった。従来の化学エンジンとは異なる、燃費の良いエンジンが必要になる。難題解決のキーパーソンとなったのは、國中均。少年時代から宇宙と宇宙船に興味をかき立てられていた。
「小学生の時から望遠鏡で星空を眺めて、写真を撮ったりしていました。僕は『宇宙戦艦ヤマト』のジェネレーション(世代)で、漫画やアニメから宇宙工学のおもしろさを刷り込こまれたと思っています」
1983(昭和58)年、宇宙推進系の研究職を目指した國中は、大学院に進学する際に宇宙科学研究所を訪ねる。「ロケット関係に興味があります」と相談すると、「ロケットは完成の域にあって、研究の対象ではない」と告げられた。が、推進系ならばロケット以外にもあると、電気の力で物質を加速して進む「電気推進」の第一人者である栗木恭一教授の研究室を紹介された。
「当時、電気推進系はまだ事業に応用されていませんでしたから若手でも活躍の場があると思ったんです。ところが、花形の領域ではないので研究費はほとんど使えない。廃材から部品を拾ってきて、トランスとダイオードを組み合わせて高圧電源を自作したり、何でも自力で工夫していましたね」
必要なものは自分で何とかするしかない。自ずと設計や工作の腕は上がった。コストをセーブする知恵も学んだ。開発に費す時間も読めるようになり、全工程を管理する感覚も身についた。人に頼らず自分でやり遂げる力が養われたという意味で、当時のことを「素晴らしい貧乏だった」と國中は振り返る。
「ごくつぶし」の意地
イオンエンジンの研究に着手したのは1988(昭和63)年頃のことだった。「将来、(イオンエンジンを)使う時が来る」という栗木教授の慧眼を受けて、國中が任された。
それは、画期的なエンジンだった。イオンエンジンは「イオン源」と「中和器」という機器がセットになっている。イオン源で燃料となるキセノンガスから生成したプラスイオンに電圧をかけて放出し、中和器から放出したマイナス電子と合わせることで推進力を生む。燃費は従来の化学エンジンよりも10倍優れていた。
原理自体は20世紀初頭に考案されていた。NASAでももちろん研究はされ、90年代に入ると静止衛星の軌道を微調整する補助的な装置として使われた。しかし、メインエンジンとして宇宙での長旅に使えるレベルではなかった。國中の後輩として栗木研究室で学んだ堀内康男は言う。
「一円玉も浮かせられない非力なエンジンが何の役に立つんだ、と。私は面と向かって言われたことはないけれども、國中さんは後ろ指をさされることが度々あったようです」
はやぶさに搭載されることになるイオンエンジンの推力は7〜8ミリニュートン。一円玉を浮かせるには1グラム重(約10ミリニュートン)の力が必要になる。人の鼻息程度のパワーしか出せないエンジンの研究は、冷ややかな目で見られても仕方がなかった。
國中は悔しさを吐露する。
「(宇宙研の)エレベーターで教授陣と一緒になると、『ごくつぶし』みたいなことを言われるわけですよ。事業に直接貢献していませんから、何も言い返せませんでしたけれども、反論したくてエビデンスの準備をしたことがイオンエンジンの応用性を探る機会になった。出番があるとすれば小惑星探査機だろうなと内心で思っていましたから、サンプルリターン計画を知った時は、ここに乗り遅れると次はないぞという気持ちでした」
非力な推力でも長時間噴き続けることで、宇宙空間では大きな加速力になる。國中は、ここが正念場だと思った。計画の発案者である川口も、イオンエンジンに望みを託し、NASAへの挑戦の実現を各所に働きかけた。
そして、1995(平成7)年8月。小惑星サンプルリターン計画は宇宙開発委員会で承認された。開発コードネームはMUSES(ミューゼス)-C。通常、人工衛星や探査機の名称は打ち上げ後に軌道投入が確認されてから公表される。
計画が承認された時点では、「はやぶさ」の名はまだどこにも記されていなかった。
3億キロの旅
1万4000時間の壁
1996(平成8)年4月、国から正式に予算が下り、「小惑星サンプルリターンプロジェクト」が発足。エンジンや通信技術など30の専門領域に、民間企業を含めた500人以上が参加することになった。
その2か月前、すでにライバルのNASAはディスカバリー計画の一環として探査機NEARシューメーカーを打ち上げ、地球近傍小惑星エロスとのランデブーを目指していた。NASAの開発のスピードは圧倒的である。
一方、MUSES-Cの開発は困難を極めた。リーダーの川口は、探査機の心臓ともいえるイオンエンジンの開発チームに、小惑星との往復の目安となる1万4000時間の耐久性を求めた。だが、担当する國中たちは、まだ目標の1%ほどの150時間しか達成できていなかった。
「打ち上げにこぎ着けても、途中でエンジンが壊れて、にっちもさっちも行かなくなって、結局小惑星までたどり着けませんでした……。そんなイメージが頭から離れなくて、苦しかったですね。一番嫌だったのが宇宙研の食堂に行った時で、いろいろな人から『イオンエンジンは順調?』って聞かれるんです。けれども、まったく順調じゃないわけですから、食事はのどを通らず、気が重くなるばかりで、僕は宇宙研の食堂には行けなくなった」
エンジンチームにはメーカーの技術者も加入していた。國中の後輩だった堀内は、栗木教授の勧めでNEC(日本電気株式会社)に就職し、メーカー側のイオンエンジン開発責任者となっていた。
「ミッション自体、最初は無茶だと思いました。誰もやったことがないチャレンジングなことだし、探査機の開発の制約があまりにも厳しすぎた。これは正直、キツイなと。イオンエンジンも信頼性を確保しつつ、いかに軽くするかということが非常に大きな課題だったんです。エンジンが動くために必要な装備一式をサブシステムと呼びますが、それを100キロ以内の重量に収めなければならず、『どうやっても目標重量に達しません』と川口先生に報告すると、『(それなら)探査機は打ち上げずに博物館行きになるよ』と言われたこともありました」
エンジンチームは試行錯誤を繰り返した。教科書にはない技術の確立に、國中は何度も音を上げそうになった。「失敗してクビになるかもしれないけれど、やり続けてもいいか?」と、妻に聞いたこともあったと話す。その迷いを、「私に聞くということは、あなたにやりたい気持ちがあるからよね。最後まで頑張ってみたら?」という即答で妻がかき消す。國中は腹を括くくった。研究室に泊まり込み、解決策を探る。難関は、150時間を超えるとマイナス電子を放射する機器・中和器の内部が溶け始めることだった。
「中和器はいまだかつてどこにも存在していない部品で、単純に電圧を上げれば性能は出せますが、寿命が短くなる。形や角度を変えていろいろ試しながら、実験室で本当にのたうち回っていた感じでした」
その間に、ライバルは力の差を見せつけてきた。1998(平成10)年10月、NASAは「DS1(ディープ・スペース1号)」を打ち上げた。これがイオンエンジンを主推進機関にした世界初の探査機となった。計画はDS1よりMUSES-Cのほうが早かったが、開発のスピードに勝るNASAにイオンエンジンの技術実証で先を越された。
しかし、川口はむしろ自信を深めたと述べる。
「MUSES-Cがイオンエンジンを使うと決めたことで、NASAは慌ててDS1を飛ばした。トリガーを掛けたのはMUSES-Cなんです。われわれの技術開発の選択肢が正しいことをNASAが証明してくれたようなものですから、痛快ではありました」
國中も、自身の設計思想の正しさを再確認した。
「DS1のイオンエンジンは1基しか積んでいないんです。一方、MUSES-Cは1基では心許ないので、ABCDと4基のイオンエンジンを搭載する。つまりイオン源も中和器も4台ずつあるわけですから、DS1の上を行く使い方ができると思いました」
MUSES-Cのイオンエンジンの設計変更は10度にも及んだ。そして國中は、ついに電圧を上げずに性能を引き出す構造を見つけ出した。あとは、どれだけ稼働し続けることができるか。國中を中心としたエンジンチームは、期待と不安を抱えながら耐久試験に臨んだ。
「1万4000時間を休みなく試験したら1年半以上かかります。最初の3か月は実験室に寝泊まりしてエンジンのお守りをしていました。結局、試験は2回やりましたから、約4年間はイオンエンジンと一緒に過ごしたことになります」
1000時間に達する毎に、國中は実験装置の壁に1枚ずつシールを貼った。中学生時代に宇宙への興味をかき立ててくれた宇宙戦艦ヤマトのシールだった。その数は、やがて18枚に。わが子に添い寝をするように國中が見守り続けたイオンエンジンの耐久時間は、川口の要求を大きく超える1万8000時間を達成した。
これで小惑星までたどり着ける。ただし、耐久試験の間に、またしてもNASAに先を越された。2001(平成13)年2月、小惑星エロスとのランデブーに成功した探査機・NEARシューメーカーが、計画にはなかった「着陸」を敢行したのである。カチンと来た、と川口は言う。
「燃料が尽きた探査機をNASAは小惑星に落として置き去りにしたんです。それでも通信が生きていたから、NEARシューメーカーは世界で初めて小惑星に『着陸』したことになった。それはNASAがわれわれに投げてくる牽制球みたいなものだと思いました」
2つの「世界初」がNASAにさらわれた。MUSES-CがNASAの後追いではなく、NASAにも追い付けない世界初の探査機であることを歴史に刻むためには、サンプルリターンをやり遂げるしかなかった。