20世紀最大のチャリティイベント【ライヴ・エイド40周年】見どころはクイーンだけじゃない!
20世紀最大のチャリティーイベント、ライブエイド
“クイーンのライヴ・エイドの映像、きのう初めてYouTubeで観たんだけど、(ピアノの上の)ペプシのコップとか、映画そっくりでビックリした!”
これは2018年暮れ、私がよく行くバーのカウンター嬢(当時20代)が興奮しながら語った言葉である。“逆だろ!映画のほうが本物そっくりなんだっつうの!” と私はつい突っ込んでしまったが、彼女のように映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年11月公開)の再現シーンを観たことがきっかけでライヴ・エイドについて知った若い人は多いはずだ。
ただ残念なことに、本家クイーンの演奏シーンだけ観て終わってしまう人も多い。その『ライヴ・エイド』が1985年7月13日に開催されて、今年でちょうど40周年になる。当時18歳だった私は、世界84カ国(録画も含めると140ヵ国)に衛星中継された20世紀最大のチャリティーイベントを当時18歳だった私は幸いリアルタイムで観ることができたが、今50歳以下の人にとっては “映像と本の中の世界” ということになる。ついこの前のような気もするけれど、月日が経つのは本当に早い。
きっかけは「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」
今回 “ライヴ・エイドとは何だったのか? 直接知らない世代に空気感も含めて伝えてほしい” という依頼を頂いたので、自分の中の記憶を再整理する意味も含めて本稿を書くことにした。あらためて当時の資料や映像を見返してみたところ、正確に覚えていた部分もあれば、まったく記憶と違っていた部分もあり、新しく知った事実もあったりと、いろいろ勉強になった。
なお、映像については7月13日以降、YouTubeのライブエイド公式チャンネルで当時の模様が順次公開されていくそうだ。本稿をきっかけにライヴ・エイドについて興味を持っていただき、当時の興奮を追体験していただけると幸いだ。
まずは『ライヴ・エイド』という巨大チャリティー音楽イベントがなぜ開催されることになったのか? きっかけになったのは、前年にリリースされたあるクリスマスソングだった。「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」= “彼らは今がクリスマスだと知っているんだろうか?”
この “彼ら” とは、アフリカで飢餓に苦しむ人たちのことだ。曲を書いたのはアイルランド出身のミュージシャン、ボブ・ゲルドフ。ロックバンド、ザ・ブームタウン・ラッツのボーカルだ。彼は1984年10月、エチオピアの食糧危機を伝えるニュースを観た。深刻な干ばつが続き、なすすべもなく餓死していく子どもたち。その映像を観てショックを受け “傍観してはいられない” と思ったゲルドフは、クリスマスソングを作ってリリースし、その収益をエチオピア支援に回そうと思い立った。
ゲルドフはウルトラヴォックスのミッジ・ユーロにその構想を話し、プロジェクトが具体化。同じアイルランド出身のU2・ボノや、同い年のスティングらに連絡を取り、趣旨に賛同する人はスタジオに集まってくれ、と呼びかけると想像以上の豪華メンバーが集まった。そう、“バンド・エイド” の誕生である。そして1984年12月3日、バンド・エイド名義の「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」がリリースされると、この曲は発売からわずか1週間で100万枚以上のセールスを突破。エチオピアへの巨額支援が実現した。音楽が持つ力を世界に示した、まさに歴史的な出来事だった。
この話はこれで終わりではない。ある日、ゲルドフのもとに1本の電話がかかってくる。“アメリカで同じことをやりたいんだけど” …電話の主は、マイケル・ジャクソンだった。
さまざまな困難を乗り越え『ライヴ・エイド』開催
マイケルが中心となって全米のアーティストに呼びかけると、ボブ・ディランやスティーヴィー・ワンダーほか、こちらも全米の大物スターがスタジオに集結。“USAフォー・アフリカ” が結成された。マイケルとライオネル・リッチーが共作した「ウィ・アー・ザ・ワールド」は1985年3月8日に発売され、世界中で大ヒット。さらなる巨額支援につながったのはご存じの通りだ。
アメリカでもチャリティーが成功したのを見たゲルドフは “このムーブメントを世界へ広げよう” とさらに動き出す。チャリティーソングに参加したアーティストを中心に、大物スターを集めたコンサートを英米で同時に開催。その模様を世界中に配信して各国でアフリカ支援の寄付を募れば、もっともっと多くの飢餓に苦しむ人たちを救うことができるはず、という壮大なプランを思いついたのである。
このプランはアーティストのブッキングやスケジュール調整、大会場の手配、中継体制の構築など、さまざまな困難を乗り越え、1985年7月13日に実現した。それが『ライブエイド』である。英国ロンドン郊外のウェンブリー・スタジアムと、米国フィラデルフィアのJFKスタジアムで同日に開催。両会場には時差があるので、ウェンブリーでのライブが現地時間の正午にひと足早くスタート(フィラデルフィアは朝の7時)。遅れてフィラデルフィアでも演奏が始まると、両会場を行き来する形で二元生中継が行われ、なんだかんだで半日以上の超ロングランライブになった。
全世界で15億人が視聴したといわれる『ライブエイド』。日本ではフジテレビが7月13日の夜9時から翌14日の正午まで、途中ニュースなども挟みつつ、15時間の衛星中継を行った。司会は逸見政孝アナウンサーと南こうせつ。このフジの中継では、英米両会場の映像だけではなく、日本のアーティスト(オフコース・矢沢永吉・佐野元春ほか)もスタジオでライブを披露。長渕剛、さだまさし、イルカらもスタジオに顔を見せた。
すべて生中継ではなかった日本での放送
ここでひと言触れておきたいのは、日本での放送は “すべて生中継ではなかった” ということだ。英国のステージで最初に登場したステイタス・クォーは、向こうの正午=日本時間の夜8時に登場したのに、日本で彼らのステージが流れたのが夜9時過ぎ。つまり1時間ディレイで放送されたのである。理由は、実際のラインナップがどうなるか当日ギリギリまで不確定だったことと、当時の衛星中継の不安定さ、そして当日は土曜だったので、8時から放送の高視聴率番組『オレたちひょうきん族』を飛ばしたくなかったのだろうか。そんな理由から放送が夜9時からになったのだと思われる。
結局、英国でのライブはすべてディレイ中継となり、クイーンの放送は深夜3時40分過ぎからだった。実際に彼らがウェンブリーに登場したのは深夜2時40分過ぎで、やはり1時間ディレイである。なのに「ボヘミアン・ラプソディ」の頭が少し欠け、しかも「ウィ・ウィル・ロック・ユー」の途中でCMに乗ったりして(当時は朦朧としながら観ていたのでそこまで覚えてなかったが)。米国のライブ後半から、ようやく本当の生中継になった。
日本のアーティストのライブやスタジオトークを流した分、出番が削られてしまった英米のアーティストもあり、“もっと英米の会場を映せ!” と激怒した洋楽ファンも多かった。ただ、自国のアーティストで強力なラインナップが組める国は3元放送にして欲しい、というのがゲルドフの要望だったようだ。たぶんゲルドフは “音楽が国境を越え、世界をひとつにする” 証にしたかったのと、そのほうが募金が集まると考えたのだろう。
当時浪人生だった私は、半日以上に及ぶこのスーパーライブ中継を、深夜は一部寝落ちしながらダラーッと観ていた。ーー いま、“予約して観ればいいのに” と思ったアナタ。当時、家庭用ビデオデッキは非常に高価だった。残念ながらウチの実家にはなかったんだよなぁ。だから寝ないで生で観るしかなかったのだ。途中何度か寝落ちしたけども。では、どんなラインナップだったのか? 英米それぞれ出演した主なアーティストを見ていこう。
再び結束を取り戻したクイーンの充実した演奏
英国では、ステイタス・クォーで幕を開け、これに続くザ・スタイル・カウンシルが4曲演奏した後、主宰のボブ・ゲルドフ率いるブームタウン・ラッツが登場。アダム・アント、ウルトラヴォックス、スパンダー・バレエといった人気どころに続いて、エルヴィス・コステロがザ・ビートルズの「愛こそはすべて」(All You Need Is Love)をカバー。スティングはポリスの「ロクサーヌ」を披露した。
そして『ライヴ・エイド』の陰のMVPと言ってもいいのが、フィル・コリンズ。ヒット曲「見つめて欲しい」(Against All Odds)を歌うと、スティングと一緒にポリスの「孤独のメッセージ」(Message in a Bottle)、「見つめていたい」(Every Breath You Take)を共演。さらにソロ曲を2曲歌って、そのままヒースロー空港へ直行。なんとコンコルドに搭乗し、フィラデルフィアの会場へと向かったのである!
ウェンブリーのステージはハワード・ジョーンズ、ブライアン・フェリー、ポール・ヤング、U2(ボノはルー・リードの「ワイルド・サイドを歩け」(Walk on the Wild Side)、ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」(Sympathy for the Devil)などもカバー)、ダイアー・ストレイツと続き、ここでお待ちかね、クイーンの登場である。
『ライヴ・エイド』前まで “解散寸前” と噂されたのステージは “フレディが美味しいところを全部持っていった” と言われるほど充実した内容で、「ボヘミアン・ラプソディ」→「RADIO GA GA」→「ハマー・トゥ・フォール」→「愛という名の欲望」(Crazy Little Thing Called Love)→「ウィ・ウィル・ロック・ユー」→「伝説のチャンピオン」(We Are the Champions)の全6曲を披露。クイーンが『ライヴ・エイド』で再び結束を取り戻したのは映画で描かれた通りだが、日本では前述したように「ウィ・ウイル・ロック・ユー」の途中でCMが入り「伝説のチャンピオン」は放送に乗らなかった。嗚呼。
ここからのメンツも凄い。デヴィッド・ボウイ、ザ・フー(この日限定の再結成)、エルトン・ジョン(ワム!の2人も一部共演)、フレディ・マーキュリー&ブライアン・メイ(2人で再登場し「悲しい世界」(Is This the World We Created...?)を披露)、そしてポール・マッカートニーがピアノの弾き語りで「レット・イット・ビー」を演奏。冒頭からしばらくポールのマイクがオフになるというアクシデントがあったが、ポールの声が会場に流れた瞬間、会場は大歓声に包まれた。
締めはバンド・エイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」を出演者全員で大合唱。トラブルもいろいろあったが、UK音楽シーンの底力、層の厚さを見せ付けた素晴らしい内容だった。
国と米国の両会場に出演した唯一のアーティスト、フィル・コリンズ
一方、米国では出演予定のアーティストがキャンセルするという事態が相次いだ。特にUSAフォー・アフリカの発案者、マイケル・ジャクソンがスケジュールの都合で欠けたのは残念。白人アーティスト中心のラインナップに黒人アーティスト勢が反発したことや、レコーディング中だったり、自分のツアーが先に決まっていたなどの理由で泣く泣く辞退したケースもあった。中には盛り上がりを見て “出ておけばよかった!” と後悔したアーティストもいたそうだが、それでもやはりUSA。こちらも豪華なラインナップになった。
フォークの女王、ジョーン・バエズを皮切りに、フーターズ、フォー・トップス、ビリー・オーシャンと続き、ここでオジー・オズボーンがブラック・サバスのメンバーと共にステージへ。オジー脱退以来久々のオリジナルメンバー再集結となり、メタルファンが沸いた。中盤、ブライアン・アダムスに続いてビーチ・ボーイズが登場。「素敵じゃないか」(Wouldn't It Be Nice)で始まり「サーフィンU.S.A」で締めたのはまさに “素敵じゃないか” だった。
その後、マドンナが熱いパフォーマンスを披露。トンプソン・ツインズらと共演するシーンもあった。そしてニール・ヤングがソロで登場した後、クロスビー、スティルス&ナッシュと共演するなどの嬉しい演出もあったところで、さきほど英国を発ったフィル・コリンズがフィラデルフィアに到着。彼は英国と米国の両会場に出演した唯一のアーティストである。ドラマーとしてエリック・クラプトンと共演し「ホワイト・ルーム」「いとしのレイラ」(Layla)を演奏すると、ピアノ弾き語りでソロ曲も2曲披露。
ここで、フィル・コリンズが呼び込んだスペシャルゲストは、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズの3人だった。そう、レッド・ツェッペリンの “再結成” である。フィル・コリンズとシックのトニー・トンプソンがツインドラマーとして、亡くなったジョン・ボーナムの代わりに3人をバックアップ。「ロックン・ロール」、「胸いっぱいの愛を」(Whole Lotta Love)、「天国への階段」(Stairway to Heaven)の3曲を演奏した。彼らが本国・英国ではなく米国会場のほうで演奏したことは、両会場、そして世界をつなぐ意味もあった。続くデュラン・デュランも英国ではなく米国会場に出演して大喝采を浴びている。
ミック・ジャガーがホール&オーツやティナ・ターナーと共演したり、ボブ・ディラン&キース・リチャーズ&ロン・ウッドという貴重なコラボも米国会場の目玉だった。そして締めはもちろん、出演者たち全員で「ウィ・アー・ザ・ワールド」を大合唱してフィナーレ。“USAフォー・アフリカ” への参加辞退したメンバーも多かったので、レコードとは違った顔ぶれになったが、ともかくこれで歴史に残る壮大なコンサートは幕を閉じた。
音楽で世界をひとつにつないだ “音楽のチカラ”
以上、これでもかなり端折っているのだが、全貌がなんとなくおわかりいただけただろうか? 1人のアーティストが “危機に直面している人たちを救おう” と動いたことが発端となり、音楽で世界をひとつにつないで大成功を収めた『ライヴ・エイド』。2004年にDVDが発売されたが、諸事情で収録されなかったアーティストや曲も多く、それだけに今回、公式サイトからどこまで “新映像” が公開されるのかも楽しみである。繰り返すが、クイーンだけ観て終わらすのはあまりにもったいない。ぜひ “音楽のチカラ” を堪能してほしいと思う。